NoName

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「これまでずっと」

「会いたかった」
そう言ってあなたは私を見た。そんなふうに見ないで。もう昔の私と違う。

「仕事中だから」
それだけ言って彼の部屋を出た。次の個室をノックして掃除にかかる。もう2週間ほどここにいる。どんな病気なのかはわからないが、つらそうにベッドで横になっている姿しか見たことがない。

「失礼します」
声をかけて静かに作業を進める。目を閉じてはいるが眠ってはいないだろう。これまで病気らしい病気はしたことがない。どれほどつらいかわからないが、ここでの生活が少しでも快適になるように私は私の仕事をする。

会いたいとは思ってこなかった。むしろ忘れたかった。忘れたかったけど、なかなか出ていってくれない。

その日の仕事を終え私服に着替える。今までと同じ日のはずだった。でも今日を境に決定的に何かが違う。これまでずっと胸の奥にしまい込んできたものを取り出すべきだろうか。

「会いたかった」
もう一度彼の言葉を思い返す。仕事終わりに立ち寄るカフェでいつものようにコーヒーを飲む。じんわりと言葉が響いてくる。明日も仕事だ。彼に会うだろうか。

いや期待はするな。期待するから裏切られる。何も望まないように、傷つかないように慎重に生きてきた。だからこれまで何とか生きてこられた。すっかり冷めたコーヒーを飲み干し外に出る。午後の強い日差しがまぶしい。

期待するな。もう一度言い聞かせる。しまい込んだものはそのままでいい。

7/13/2024, 3:21:39 AM