初めて日本酒を飲んだはずなのに、どこかで感じたことのある感覚に襲われたが、それがなにか、二杯目を飲んで思い出した。〝アルコール消毒液をたっぷりつけた後の手の匂い〟だ。
一言で言えば不味かった。思っていたような味がしない。苦いとか辛いもあまりない。
僕が顔をしかめていると、父は隣で同じ日本酒を口に運びながら笑っていた。
「美味くないか?」
「いや、全然。消毒液じゃん」
「当たり前だろ。酒なんだから」
まあ、そうだけど。
「まだまだ子供舌だな」
そう言って父は「もう一杯」と日本酒をお猪口に注いだ。
【20歳】フィクション作品 #5
マンションの屋上から見た夜明け前の空は、何か新しい物語が始まりそうだった。今みたいに一人で眺めるのもいいし、裕二と二人で見に来るのも、ザ・アニメの青春といった雰囲気が好きでよく来ていた。昨日も、いつものように期末テスト終わりの裕二とこっそり部屋を抜け出して、軽く雑談を交わしながら、お互いに持ってきたジュースとスナック菓子を食べていた。そんな時だった。
「なあ、俺死ぬんだ。明日」
裕二が死ぬと言った。ような気がした。聞き間違いかと思って「え、なんて?」と僕は慌てて聞き返した。すると、裕二はぽりぽりと袋から取り出したお菓子を食べながら、一度空を眺めて、それから僕の方を見て言った。
「明日死ぬ予定なんだ。いや、日はとっくにまたいでるから、今日死ぬ予定って方が正しいかも」
やっぱり死ぬと言っていた。しかも今日だった。
【夜明け前】フィクション作品 #4
日本という国には四季があるらしい。
春、夏、秋、冬の四つが一年を通して過ぎていく。と、今読んでいる本に書かれている。
「また読んでんの?それ」
千里は勢いよく本を閉じた。
「もう、ビビり過ぎ。先生今職員会議だから。別に少し見てるぐらい大丈夫だって」
背後から視界に入ってきたのは、同じクラスの美希だった。千里に「おは」と、声をかけ、教室の隣の席に座って優雅に足を組み、こちらを見てくる。
「真面目だね。今日のはなんの内容?」
「季節の話だよ。今は夏のところ」
千里はさっき閉じた本を開き直して、四季『夏について』と書かれているページを見せた。美希は椅子を近づけて、本を覗き込む。
「夏?……え、暑いの?夏」
「うん。四十度近くなる日もあるらしいって」
「外出るの絶対無理なやつ……ほら、これとかよく生きてられるよね」
千里は美希が指さした箇所を見た。挿絵には海で楽しそうにボール遊びをする家族が描かれている。
「流石にこれは死ぬやつ」
確かに死ぬかな。と思ったが、千里は味わったことの無い四十度は少し興味があった。一度だけでもいいから暑い夏という季節を過ごしてみたいという好奇心が、いつか満たされる日が来ればいいなと考えながら、鼓動が少し速くなっている胸を押えた。
【夏】フィクション作品 #3
「ええと、ここじゃないんですか?」
「アイツの家に行く」と、ジャッド・レッグから言われ、案内された場所は、簡易的な白い柵で仕切られた土地の中に、家どころか建築物一つ見当たらず、花実が見たこともない種類の草が群がって生えているだけの空間だった。
「……おかしい」
ジャッドは顎に手を当てて呟いた。
「ここで間違いないはずなんだが」
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花実がジャッドの話を詳しく聞いてみてわかったこは、二日前までは確実に家があったということだ。写真も残っており、実際にジャッド本人が鍵を使って家の中に入った記憶もある。しかし、今事実としてこの場所に家は無い。
たった二日で、家が勝手に取り壊されるとは考えにくい。
「これは、魔法の力のせいなんですか?」
花実は恐る恐るジャッドに質問した。
「……魔法のせいだろうな。今の俺には感じられねぇが、まぁ間違いないだろ」
花実は下を向いた。
ここで、とてつもなく大きな力が使われてしまったのだろうか。仮に、ジャッドが初日に言っていたことが本当で、ローゼが生きていたとしても、今は帰る家がない状態になってしまっている。その事実が心を強く痛め、花実は胸を押えた。
「アイツは生きてる」
ジャッドははっきりと、花実の顔を見て言った。
「今はここではないどこかに身を潜めてる。だから絶対、帰ってくる」
【ここではないどこか】フィクション作品 #2
九月、彼はいつもの場所に現れなくなった。
最後に会ったのは八月だ。
私は彼から借りていた本を返して、また新しい本を借りた。読んだ感想をたくさん話して、お礼を言ってその日は解散になった。
「また、いつか」
私は彼が言ったその言葉を、未だにはっきりと覚えている。いつも通り住宅街にある階段に腰掛けて、風に黒い髪をなびかせながら、私に手を振っていた。私は笑って手を振り返して、そのまま家へ帰った。
今思えば、あの日だけだった。
いつもは別れの際「また、来月」と言ってくれていた。なのにあの日だけは「また、いつか」だった。
引越しとか、仕事の都合とか、何か事情があったのかもしれない。と、当時相談した母からは言われた。でも、私は何故かそう思えなかった。
最後に会った日から十年。彼が本当に存在していたのか、実は夢を見ていたのではないかと思い始めるほど、私は所々の記憶が薄れてきていた。しかし、彼から借りている本を見て、表紙を触ると、そこには存在感があり、あの時の私と彼との繋がりは実際にあった出来事だと強く認識するのだった。
【君と最後に会った日】フィクション作品 #1