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5/18/2024, 4:36:18 AM

月が雲の隙間から闇を浮かび上がらせるように光を落とす。上空は強い風が吹き、雲を走らせ、解き、空は瞬く間に表情を変えていった。静まり返った山に影が斑に模様を作り出していく。静かである中にどこか不穏さを漂わせるその景色に一筋、鋭い光が走った。しなやか、そして力強さを持ったその閃光は山を踊るように駆け上がっていく。山頂に近付いたその瞬間、大きな咆哮が山に響き渡った。それは荒々しい獣のような、はたまた恐ろしい鬼の怒りのような、そして僅かな悲しみを含んだ響き。山の麓にある小さな集落では何事かと蝋燭の火が灯り、人々が不安のまま窓の隙間から外を伺う。しかしそれはもう二度と聞かれることは無かった。
雲が晴れた。背の高い木々の隙間を縫うように月明かりが複雑に入り組む木の根の道を照らす。そこをゆっくりと歩く人影があった。素足に草履、そこに淡く薄緑色の染みが点々と雫を落としたような形で付いている。見ればそれは大きさを増し繋がって大きな池のように濃くなりながら袴から着物、首から顔や髪にまで付いていた。右手には同じ緑に染まった刀を持ち、左手には何やら大きな物を持ちずるずると引きずるようにして運んでいる。重量のためか足取りは重く、時折大きく息を吐いて空を仰ぐ仕草をしてまた足を踏み出すことを繰り返していた。大きな物の正体は闇に隠され、月でさえ照らし出すことを拒む。山に住む獣も近付くどころか息を潜めその顔すら見せはしない。誰もいない山道を鋭く見据える男の目だけが光って見えた。
山に居着いたとされるのは大きな魑魅魍魎の類。いつしかこの山に夜入ることを集落の人々は固く禁じた。夜な夜な聞こえるどの獣とも違う恐ろしい咆哮は、次第に山から人を遠ざけ、最近では商人の足も途絶えてしまっている。しかしこの日を境にその声は聞かれなくなり、山は霧が晴れたように美しい姿を人々に見せてくれた。少しづつ人は戻り、集落の人々は山の神様を丁寧に祀り、山と共に栄えていった。
真夜中の闇の中、鋭い光が見たものは誰も知らない。

4/21/2024, 7:51:38 PM

それは息を呑むほどに美しかった。
山の少し冷えた空気、肌を撫でる風、うっすらと白み出した空。木々が微かに音を立ててその身に何千と伸ばした葉を揺らす。まだ新しい朝露が葉の緩やかなカーブに沿って伝い落ち大きな雫となって地面へと落ちた。まるでそれを合図にするかのように、遠くの山から後光のように陽の光が一筋こぼれ出る。その光をなぞるかのように、空高く一羽のカラスが舞い上がった。
「 あぁ、今日も朝が来た 」
ただその景色に見とれていた僕の頭上から聞き慣れない声がする。実態の無いような、透き通るような柔らかい声。辺りを見渡してもその主は見当たらない。
「 ほう。声が聞こえるか 」
興味を含んだその声は今度は耳のすぐ後ろで聞こえる。振り返っても姿は見えず、しかしそこに薄い布が揺蕩うのが見えた。水面の揺らぎのように緩やかに風に揺らめいている。手を伸ばすも触れられず、しかし不思議と手には微かな温もりを感じた。
「 …誰? 」
得体の知れない相手だが何故だろうか全く怖くない。不意に笑ったように感じた。頬にそっと何かが触れる。
「 いつかその瞳にこの姿が映った時に教えてやろう。その時を楽しみにしているぞ 」
空気に撫でられるような感覚。そしてふわりと香る藤の甘い香り。と次の瞬間、強い風が一気に吹き上がり布が舞い上がる。その行方を追いかけ思わず空を見上げると、太陽の光が夜を照らして一面に美しいグラデーションを作り出していた。徐々に肌に当たる空気の温度が上がっていく。あの声の主にまた会える気がするのは、この美しい朝のせいだろうか。そしてその時には、その姿がはっきりと見えるのだろうか。
「 …朝が、来た 」
全てを投げ出そうとしていた。一番美しいと思ったものを見て最期にしようと。そんな心の内を見抜かれていたかのように、また会う約束をされた気分だった。姿も正体も分からない。けれど温かく見守るような優しさを感じた。
ひとつ、息をついて大きく伸びをする。見守ってくれるなら、また会えるのなら、もう少しだけ頑張ってみようか。

4/12/2024, 6:41:51 PM

駆け出した足はいつまでも地面を離れることなく、ただ飛び立っていく仲間の背を見送るだけだった。
「 また置いていかれたな 」
息を切らして空を睨み付けていた僕にそう声を掛けてきたのは背の高い体躯のしっかりした男だった。その背には大きく力強い漆黒の翼が見える。自分にもあれほどの翼があれば、と背中を覆っている少し痩せた羽を一瞥した。
「 この翼じゃ、飛ぶなんて夢のまた夢なんだろうね 」
微かに血が滲む擦り切れた足よりも心の方がよっぽど痛む。苦し紛れに出た皮肉もただ虚しいだけだった。今まで何度仲間を見送ってきただろう。空へ飛び立つ瞬間のあの表情を何度羨ましく思って見ていただろうか。すると何か考えていたらしい男が口を開く。
「 俺はここを縄張りにしていてな。前から何回か見ていたんだが、あともう少しで飛べると思うぞ 」
その言葉に驚いて顔を上げると、男は腕を組みこちらを真っ直ぐに見つめて大きく頷いた。その表情にはいくらか自信が見て取れ、どうも気休めや同情で言ったのではないと思われる。
「 もちろん体力作りは要るが、あとは走り方とちょっとしたコツだな。これさえ何とかすれば飛べる。間違いない 」
飛べる。その一言は何よりも救いだった。
「 …ほ…、…っ本当に?」
「 本当だ 」
迷いなく放たれた言葉に視界が歪む。もう諦めようと幾度となく考え、もう足を止めてしまおうと何度も思い、それでもあの空を目指し走り続けてきた。いつか自分も飛べるはずと、誰よりも空に手を伸ばして。
「 泣いてる場合じゃないだろ 」
大きな手が優しく頭を撫で、柔らかな笑い声が涙を掬っていく。
「 僕も…飛びたいっ 」
いつか自分の翼で、夢見た遠くの空へ。

3/24/2024, 5:49:15 PM



雨が強くなった。
つい先程まで運良く晴れていたと思っていたところにこの雨。帰り道にある小さな商店街の、とりあえず目についたサンシェードの下に駆け込む。走ったために乱れた呼吸を整え、シャッターに背を預けては濡れた髪をかき上げ苦々しく空を見上げた。雲の動きが速いところを見ると、直にこの雨も止むだろう。ふと視界に入ったサンシェードは店先に僅かばかり伸びている程度で、随分年季が入っているのか色は日に焼け全体的に白っぽく、所々ほつれて穴も空いている。すると見上げていた頬に雨が一雫、落ちてきた。その冷たさに思わず眉をしかめ、ポケットからハンカチを取り出し濡れた頬を拭く。首の後ろも拭こうと俯いた時、スマホが鳴っていることに気付いた。鞄から取り出して画面を確認しようとした時、スマホ越しに向かい側に止まっている車が見えた。見覚えのある黒い車に、乗っているであろう人物のことを考えて無意識にため息をこぼす。
「 …もしもし 」
「 おっ、何だよそのテンションの低さは 」
スマホの向こうから聞こえてくる声は妙に明るく、少しだけ笑いを含んでいた。
「 いや、何してんだよこんなトコで 」
小さな商店街。当然道路も狭く、車はなんとかすれ違える程の幅しかない。通りは多くないとは言え、道路の半分を占拠していては迷惑になる。にも関わらずハザードランプをつけ、こうして呑気に電話をしてきているのはあの男の無神経さから来るものであった。
「 何って、雨を追っかけてきた。お前、雨男だしな 」
確かに雨にはよく降られる。小さい頃からそうだった。その事でからかわれたりイジメにあった事もあるが、この腐れ縁の幼馴染はそんな事気にもせずいつも俺を遊びに連れ出した。
「 何か用でも… 」
「 そういや朝の天気予報でところにより雨とか言ってたけどよ、ここまで来るとアレだな、お前がいるところにより雨、だな 」
突然のダジャレに顔が引き攣る。スマホからはスピーカーにせずとも笑い声が漏れ聞こえた。今すぐ切ってやりたい。一頻り笑ってから不意に車の窓が開いた。
「 悪い悪い。いや、家まで送ってやろうかと思ってこっち来てみたんだ。そしたら暗い顔で雨宿りしてるから、何かあったのかと思って 」
色の濃いサングラスを軽くずらし、こちらを伺うように見てニッと笑ってみせる。子供の頃から見てきた、悪戯っ子のようなあの笑顔。何かあった時はいつもああして笑って俺の手を引いていく。嫌なことがあった時も、失敗して落ち込んだ時も、心無い言葉に沈み込んだ時も。
「 ……別に 」
雨の中小走りに車へ向かう。後部座席に乗り込むと、バックミラーに映る満足気な目が見えた。なんだか癪だが仕方ない。いつ止むか分からない雨に付き合っていられるほど暇じゃないのだから。
「 いつまでもここに停めてたら邪魔になるし、まぁ、タクシーとして使ってやるよ 」
運転席から機嫌のいい笑い声がする。
「 オーケー、お客さんどちらまで? 」
「 家まで。ついでに何か甘い物奢れ 」
気付かないうちに口元に笑みが浮かんでいた。心の雨も、もう直に止むだろう。