NoName

Open App

夢に見るのは子供の頃の消えかけた記憶。いつ、どこだったかも思い出せない。ただ汚れた靴と、お気に入りだったカエルの鞄の紐を強く握りしめていた感触だけは覚えている。
小さな俺はいつの間にか迷子になって、しばらく歩いてみたものの、全く見覚えのない景色に不安だけが募っていた。
「 坊や 」
不意に声が聞こえて振り返ると、大人がこちらを見下ろしていた。紺色の地に淡く花の柄が入った着物に、肩には白いレースのストールを身にまとい、昔ながらの蛇の目傘をさしている。髪は腰まである艶やかな黒髪、右耳の上あたりに小さな白い花の髪飾りをつけているのが見えた。
「 迷子さんかな? 」
柔らかい声は透き通っていて、温かさを含んでいる。ふっと微笑んだその顔は子供ながらに見とれるほど美しかった。緊張から上手く声が出ずこくりと頷くと、白く綺麗な手が伸びてくる。
「 分かる所まで行こうね 」
何を言っているのかはよく分からなかったけれど、何となくその手を掴めば帰ることができると直感した。手を繋いで歩き出すと、足元に傘の影が落ちているのを見て空を見上げる。雨は降っていない。手を引くその人を不思議な気持ちで見つめていると、どこからか水滴の落ちるような音が聞こえ始めた。反響するように響いて耳に届くその音は心地よくもある。すると瞬きをした次の瞬間、自分たちの周りを取り囲むように雨が強く降って景色をすっかり隠してしまっていた。思わず恐怖から縋るように手を握ると、腕が優しく体を引き寄せる。どのくらいの時間だったろうか。目をぎゅっと瞑りしがみついていたが、気が付くと雨は止んでいた。パタパタと傘を叩く僅かな水の音だけが残っている。
「 もう怖くないよ。さあ、君の家へお帰り 」
そう言われ辺りを見渡すとそこは見慣れた近くの田んぼ道で、後ろには社のある森があった。家もすぐ近くに見えている。
「 あ、ありがとう 」
やっと出た声は小さくて、それでも受け取ってくれたその人はゆっくり手を振った。
「 バイバイ。またね 」
「 バイバイ 」
手を振り返して家へかけ出す。途中で振り返ったけどその人はどこにもいなくて、ただ大きな虹がかかっていたのは覚えている。


2/1/2025, 4:56:29 PM