倒壊した研究所に黙って立ち尽くしたアカルは、ただ一点を見つめていた。
横に並ぶと、足元を指し示して口を開く。
「ここ、だ。」
その意味はすぐにわかった。
研究所にいた頃の、アカルの部屋。
部屋の輪郭はかろうじて残っていた。
人が一人暮らすには狭すぎる部屋だった。
この独房で過ごしていたと言うだけで、そこでの扱いが十分に知れる。
「ここに、机があって。」
部屋の半分ほどの空間を大きく囲う。
それだけでも、人がまともに生活できるような設計じゃない。
「ここにトイレがあって、ここから食事が出てきて」
細い指が、対角の隅を順に指す。
「それで、毎日、毎日、」
はぁっ、と浅く息を吸う音で、部屋の跡から隣に視線を移して。
焦点の合わない瞳に、思わず抱き寄せていた。
途切れた言葉の先なんて、聞かなくてもわかっていたから。
毎日、毎日、被検体として虐待紛いの実験を受けていた。
半ば無理矢理肩にもたせ掛けた頭は、初め戸惑うように、遠慮がちに浮いていたが、やがて確かな重みを預ける。
触れるところから伝わる震えを宥めるように、しばらく2人でそうしていた。
「ごめん、俺、話を、」
「いい」
詳しい内情を説明しに行かないといけない、と腕の中から抜けようとするアカルを閉じ込めるようにして止める。
「でも、他の子たちに話をさせるわけにいかない」
「お前だって、今話ができるような状態じゃねぇよ」
アカルの言う“他の子たち”、今回の作戦で保護された被検体の子供たちは二十数人に及ぶ。
前線で作戦の戦闘部分を担っていた立場ではちらっと見かけた程度だったが、どの子供たちも言葉では表せないほど、身体的にも精神的にも酷く傷ついていた。
清潔感のある被検体服でいっそう際立つ痩せこけた手足、一切の光がない表情。
その様子は、出会った頃のアカルを思わせた。
今、その子供たちが集まる本部へ、アカルを行かせたくなかった。
これ以上、痛みを負ってほしくない。
そういう、ただの、わがままだった。
「あー、座るか、ほら」
こっち、とさりげなく部屋の跡の内側へアカルを導く。
なんとなく、ここをこのままにしておきたくなくて。
アカルの「部屋」がまだ、鮮明にここにあるような気がして。
だから、足を踏み入れる一瞬、わずかにアカルが躊躇ったのには気づかないふりをした。
アカルが「机があった」と話した空間の右端あたり、ちょうど良い高さで残っていた外壁に座る。
所在なげに立ち尽くすアカルを見上げて、固さを感じる眼差しに目を合わせ、安心させるように少し笑って隣を示す。
また一瞬の逡巡の後、アカルは浅く腰掛けた。
「いやー、やっと、終わったな」
大袈裟な程に息を吐き、両手を後ろについて軽く伸びをする。
うん、と頷いたアカルがつられて、体の両脇に手をつき顔を上げる。
「あ…」
小さく、そう呟くのが聞こえた。
どことなく強ばっていた隣の気配がふっ、と緩む。
何を見たのか、何に気づいたのか。
なんとなくわかる気がしたから、聞かなかった。
雲ひとつない空は突き抜けるように高く、ただ遥かに青く、青く。
「部屋」はもう、どこにもなかった。
-狭い部屋-
「わたしね」
向かいの席に座った友人は、ストローを軽く揺らしながらぽつり、と呟いた。
からころ、とアイスミルクティーの氷がぶつかり合って音を鳴らす。
以前から彼女が「ここのミルクティーが一番おいしいんだよ」と、なにかにつけてはおすすめしてやまない喫茶店。
久しぶりに誘ったのはわたしだった。
「恋愛感情には、ちゃんと行き着く先があると思ってたの」
うん、と相槌を打つ。
「得恋か、失恋か。」
「とくれん?」
聞き慣れない単語に思わず繰り返すと、彼女は少し得意気な顔をした。
「恋愛が成就することを言うんだって。失恋の反対。」
得意のとく、と空中に指でなぞり書く。
小さめだけれど形の整った、相変わらず綺麗な指先。
「でも、実際に恋愛してみたら、そうじゃなかった。」
恋愛感情が上手くわからない、初恋もまだだと思う、と恥ずかしそうに口にしていた彼女が「好きな人ができたかもしれない」と自信なさげに報告してきたのは去年の秋。
その時点で春頃から誰にも言えずに抱えている恋だと話していたから、今は彼女が初恋を自覚してから、ちょうど一年が過ぎた頃だ。
「恋愛を知らなかった時は、好きな人と両想いになれて、付き合えるなんて奇跡みたいなことで、その奇跡を起こせなかった人が失恋するんだと思ってたんだけどね」
高校生になってまで、少女漫画のような恋に憧れていたことを知っている。
そしてそれを、酷く難しいと笑っていたことも。
真面目で不器用で臆病で、少し夢見がちで。
そんな自分をわかっていて、静かに受け入れているところが、子供っぽいのに大人びていていて、矛盾していると思っていた。
そして、そんな彼女を好きだと思う。
「失恋することすらも、できなかったの。」
少しの間を空けて彼女とわたしの間に落とされたその言葉は、心臓を細く硬い紐で縛って、ぎゅうっと引っ張ったみたいに、わたしの深いところに刺さった。
「まるでそこでなにもかも終わっちゃったみたいに、“失恋”なんて簡単に言うけど、それは自分の気持ちに真っ直ぐ向き合って、逃げずにちゃんと頑張った、そんな勇気のある人だけの、大事なものだった。」
「うん」
相槌に必要以上の共感が滲んでしまったような気がした。
自分の話を聞いているようだった。
彼女には、彼女にだけは、こんな恋はしてほしくないのに。
「もちろん、恋は叶う方がいいに決まってるけど、だから失恋した人にこんなことは言えないけど、それでもすごく、とうといものだった。」
わたしにはできなかった、と彼女は俯く。
「怖がってびくびくしてるうちに、汚い自分ばかり見えるのが嫌になっちゃって、見ないふりして諦めたと思い込んで、それなのにふとした拍子に溢れてくるの。」
知ってる、全部知ってるよ。
そう、叫び出したかった。
やめてよ、そんなこと言わないで、せめてわたしが触れられないところで、幸せな恋を叶えてほしかったのに。
それをまた無難な相槌で抑え込む。
「失恋もできなくて、どこへも行けなくて、わたしのこれはどうなるんだろう。」
ぐずぐずに腐って、どうしようもなく心の底に巣食う醜い塊になるよ、とは言えなかった。
そんな恋をずっと引きずって忘れられないことを、付き合いの長さで諦めて、そのくせやっぱり初恋を応援することはできなくて。
それどころか、いい機会だ、君の恋の成就を見届けて自分の恋を今度こそ葬り去ろうなんて、都合よく利用しようと考えていた。
自覚した時は、罪悪感で死にたくなった。
目の前のわたしが君にこんな気持ちを抱いていながら、もうすっかり隠すのも上手くなるほどずっと離れられずにいたんだと知ったら、君はなんて言うだろう。
すべて明かしてしまおうか、と自棄になりかける心に、もう何度目になるかもわからなくて、またか、とため息をつきながら蓋をしようとして。
でも、彼女は「とうとい」と言った。
腐ってどろどろで見るに堪えないこれが、恋を知った彼女の言葉で最後に綺麗な何かに変わるのだとしたら。
自分からは動こうとせず、なにも頑張らずに失恋しようだなんて都合のいい考えは通用しなかったけれど。
初めての恋に疲れてしまった彼女につけ込むようなタイミングで、汚い告白かもしれないけれど。
全部今更じゃないか。
からころからころ、と涼しげな音が鳴る。
爽やかな初夏のみずみずしい緑が窓ガラスの奥に広がっている。
失恋を、彼女の言う恋の行き着く先を迎えるなら、こんな、わたしの恋には似つかわしくないくらい綺麗な日がいいと、ふと思ったことはまるで最初から考えていたかのようにしっくりときた。
「ねぇ、あのね」
-失恋-
「お疲れさま」
少し高めの涼やかな声が張り詰めた空気を揺らす。
任務完了。
ふ、と小さく息をついて、オリヤは緊張を解いた。
「調子、良かったんじゃない?」
ぐっ、と伸びをしたオリヤの影の隣、軽やかにもう一つが並ぶ。
「うん、晴れて良かった。」
まだまだ発展途上で、天候に左右されがちなオリヤの術は、今日のようなからっと晴れた昼下がりの任務と相性が良い。
オリヤらしいね、とどことなく嬉しそうにコノセが笑った。
「あ、いや、天気の話なんてどうだっていいんだ。終わったら話したいことっていうのは、そうじゃなくて」
話したいことがあるから、任務の後少し時間を取ってほしい、と連絡したのはつい昨日だ。
任務が入るのは不定期だし、入らないと会えないのでぎりぎりでも仕方ないと言えば仕方ないけれど。
続きを促す気配に、オリヤは短く息を吸って。
真っ直ぐコノセを見つめて、一気に言い切った。
「コノセのことが好きです。良かったら、俺と付き合ってください。」
コノセは少なからずたじろいだように見えた。
何か言いたげに口元を動かして、でもやっぱり言い淀んで。
「ごめん、それはできない。」
ただ端的にそう言った。
「そっか。」
沈黙が落ちる。
なんとなく、そんな気はしていた。
コノセと初めて会ってからもう短くない時が流れていて、自惚れではなく、コノセの一番近くにいる存在だと確信している。
一番信頼もされている。
それでも、ずっとその先には踏み込めない一線みたいなものがあった。
コノセが自分に、“仕事上のパートナー”より先へ行かせてくれないことを、オリヤは知っていた。
「ごめん、まぁ、多少気まずいかもしれないけど、今まで通りにしてほしい。」
「うん、わたしも、ごめん。」
「なんでコノセが謝るんだよ。」
とぼけて笑いながら、本当はわかっていた。
コノセはオリヤを振ったことに対して謝っているんじゃない。
線を引いて弾いていることを自覚して、そのことを謝っている。
それでも。
「コノセ、俺さ。」
この際だ、全部言ってしまおう。
「コノセのことが好きだよ。大切で、コノセの一番になりたいと思ってる。それで、」
それで、何より、「恋人」の立場を欲しがった理由。
「もうコノセを一人にしていたくない。」
仕事上のパートナーがいても、生き方を教えてくれた先生がいても、まだ頑なに一人を貫こうとするこの子は、「恋人」なら、「一番大切な存在」だとはっきり名前をつけた人間なら、その一人ぼっちの線の内側に入れてくれるだろうかと。
「オリヤ」
静かな声に呼ばれる。
いつだって、オリヤに“オリヤ”としての輪郭をくれる声。
「ねぇ、いい天気だね。」
眩しそうに目を細めて、コノセが空を見上げる。
「術には心が表れる。こんなに明るい世界に、素直に影響されるような術を使う人、なんて底抜けに善人なんだろうって、いつも思うよ。」
視線をオリヤに移して、それなのにまだ眩しいものを見るような目をして。
「オリヤは善い人すぎるから、優しすぎるから、そんな人が理不尽に傷つくところは見たくない。」
何も言えないオリヤの視界の端で、ただでさえ小さめな手がさらに小さく、ぎゅっと握られる。
「オリヤみたいな人には、ずっと笑っていてほしい。」
わたしの我儘だよ、だから、ごめん。
コノセはだんだん語調を弱めて、最後はぽつりと呟いた。
まるで、コノセと深く関われば必ず理不尽に傷つくと決まっているような口ぶりだった。
そうやって、コノセが一人でいるうちはオリヤが笑えないことなんて、思い至りもしない。
「わかったよ。」
それでも結局、コノセが望んでいないことをできるはずがないんだ。
それに、コノセは気づいていないかもしれないけれど。なんとも思っていない奴を、あんな声で呼び、あんな表情で語る人間はいない。
うーんっ、ともう一度大きく伸びをして、オリヤは明るい声を上げる。
「なぁ、なんか食ってかない?そういえば、俺今度こっちの方来たら行きたいと思ってた店があってさ」
快晴の空の澄み切った青が、歩き出した二人の上に、どこまでも広がっていた。
-天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、-
「急に呼び出して、ごめんなさい。」
少女がうつむいたまま呟くのを、少年は黙って聞いていた。
夕闇の中、鮮やかに浮かび上がる夜の街を見下ろす。
いつもと同じ、窮屈で、ちっぽけで、美しい街。
けれど、目の前の少女だけは様子が変で、大丈夫だよ、の一言が言えなかった。
「あのね」
そう言って顔を上げた少女の眼差しに、少年は思わず口を開きかけ、慌てて強く唇を噛む。
なんでもいい、ただ続く言葉を遮りたかった。
その先を聞いたら何かが壊れてしまう、そんな予感がするのに、少女を止める術がない。
「お別れを言いに来たの。もう二度と、会えないと思うから。」
少女はゆっくりと、一語一語を紡ぐように言った。
はっ、と小さく息を漏らしたきり、何も言えない少年を真っ直ぐ見つめるその瞳は、返す言葉を許さなかった。
「ごめんね、本当にごめんなさい。今までありがとう。」
「…っ待てよ!」
ぺこり、と頭を下げて逃げるように立ち去ろうとする少女の細い手首を少年が掴む。
「どういうことだよ、こんな急に言われたって…わけがわからない、なんで」
「ごめん」
震えた声が、小さく、しかしはっきりと少年を阻む。
「ごめんね」
その、涙の一滴すら浮かんでいないのに何故か泣いているように見える、そんな知らない微笑みで、少年は否応なくわかってしまった。
少女の言うすべてが真実である、と。
夜の街が、少女の綺麗な笑顔を照らす。
する、と薄絹がすべるように少年の手をすり抜けて、少女は今度こそ駆け出した。
けれど、手を振り解くその一瞬、少女の表情に微笑みとは別のなにかを見た気がして。
「サヤ!」
少年が縋るように叫んだ少女の名は、届くあてもなく藍と灰の溶ける虚空に散った。
-「ごめんね」-
わたしの好きな人はなかなか半袖を着なかった。
長袖を肘までまくり上げて、どうせまくり上げるなら半袖にしちゃえばいいのにな、なんて、こんな小さなことにも鼓動が逸るような、それでいてどこかあったかくなるような、そんな気持ちでわたしはいつも、みんなの前に立つその人を見ていた。
血管の浮く、引き締まった腕が好きだった。
周りの男の人たちと比べると少し小柄な身体をめいっぱいに動かして、楽しそうにつくりあげる音楽が好きだった。
詩と真剣に向き合う考え方も、擬音ばかりの指示も、よく通るテノールの歌声も。
その人が好きな音楽を一緒につくり出せることが、その音楽の一部になれることが嬉しかった。
わたしにできることなら、なんでもしたいと思えた。
今日もまた、長袖をまくってる。いつ半袖にするのかな。
今日は半袖だ!なんだかレアなところを見た気分になるな。
指揮者と奏者の距離の分を、どうしても踏み越えられずに立ち竦んでいた臆病なわたしは、流れていく短い年月を徒に見送って。
想いの分だけ小さな輝きを重ねていた、そんな日常を、
もう失ってしまった。
-半袖-