ハイル

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10/18/2023, 4:54:30 AM

【忘れたくても忘れられない】

 ベランダでのんびりとコーヒーを嗜むのが、私の至福の時間だった。
 朝日はまだ顔を出したばかりで、ひんやりとした空気が肌を撫でる。寝間着のままだったので、上に何か羽織るものを、と部屋に引き返そうとした時、視界に何かが入り込んだ。
 私は外を振り返って向かいのマンションを見つめる。やはり何かが動いている。さらにじっと目を凝らすと、そこには女が髪をなびかせて立っていた。私が五階に住んでいるので、彼女は七階あたりの住民だろう。
 同じく寝間着姿の女は、私に気がついたのかこちらへ微笑みながら手を振ってくる。よく見るとなかなかの美人だ。私も気分が良くなって手を振り返す。ここから始まる恋愛もあるのかも、と心が踊りだした矢先、彼女がベランダの手すりに足をかけ出した。
 咄嗟のことで声が出なかった。
 彼女の視線は尚もこちらを見つめている。距離があって本来なら見えないはずの瞳の奥まで、そのときはなぜか見えた気がした。
 瞳の中に潜んでいたのは闇よりも深い漆黒だった。そこには漆黒が飼われていた。それが彼女の笑みを特段不気味なものへ昇華する。私は彼女の準備が済むまでの間、その瞳に魅入られていた。
 準備が整うと、彼女は声も出さず空中へ飛び降りた。
 直後、嫌な音がこだまする。
 私は震えてまともに動かない手で、なんとか救急の番号へ電話をかけるのだった。
 あの時の彼女の瞳、響き渡った肉塊が弾ける音は忘れたくても忘れられない。
 あれ以来、私はベランダへ出ていない。外を見ると、脳裏にびっしりと染み付いたあの映像が、事細かに再生されるのだ。

10/14/2023, 2:01:12 PM

【高く高く】

 日がゆっくりと沈み、夕日が辺りを照らし始めていた。少年の影が異様な形をして伸びていき、路地の両端に構えられた石塀に歪に屈曲してその姿を写した。頭上では、かぁかぁと烏たちが不気味な合唱を奏でている。
 不穏な空気がそこかしこに纏わりついていた。なにが、とは明確に言い表せないが、この時間になるとこの世のものではない何かが湧き出て来ているような気がするのだ。今この瞬間にも、死角から得体のしれない何者かがこちらを狙っているのではないか、と思うほどだ。
 少年は早足になって帰路を急いだ。今すぐにでも家に飛び込み、自分の帰りを待っている母親の顔を見て安堵したかった。
 少年は無心になって目的地を目指したが、ふと背後から何者かの視線を感じて立ち止まった。否、立ち止まった、というよりも立ち止まらされたのだ。
 その視線は明らかに少年の背中を凝視している。下から見つめられたかと思うと、それは徐々に上から見下ろすように視点自体が上がっていっているような感覚がした。
 少年はいても立ってもいられず、ばっ、と背後を振り返った。
 人間の顔だった。煙の中に浮かび上がった青白く、にたぁ、といやらしく下卑た笑みを浮かべた顔が、ぼんやりとそこに漂っていた。顔は煙の流れに沿って高く高く立ち昇る。背後にあった民家の二階あたりまで昇っていくと、ふっ、と消えてしまった。

 後日、少年は近所で古びた駄菓子屋を営む男の家を訪ねていた。
 男は物好きとしてこの辺りでは有名だった。とりわけ風俗的なことや伝承に詳しく、少年が出会った何者かについても知っているのではないかと踏んだのだ。

「坊主、それは煙々羅(えんえんら)という煙の妖怪だな。はるか昔、江戸時代のとある画家が描いた今昔百鬼拾遺という――と、こんな話してもつまらねぇか」

 男は一人で楽しそうに笑いながら話していた。
 少年にとってはちんぷんかんぷんな内容であったが、とりあえず悪いものではないようだったので、ほっと胸を撫で下ろした。
 男が言うには、あのくらいの時間はちょうど現世と異界の境界線が曖昧になり、此方側に魔が入り込んでくることがあるそうだ。

「気をつけねぇと、今度は坊主が迷い込んじまうかもしれねぇな」

 男は嫌な笑みを浮かべながらそう冗談を言った。冗談かどうかは定かではないがそう思い込む他ない。
 少年には男の笑みが、あの時に見た煙の妖怪の笑みと同じくらい気味悪く思えた。

10/13/2023, 6:05:10 PM

【子どものように】

 先に明示しておくが、ここに記す所在地名は仮名であることをご留意願いたい。

 私は先日の三連休で、人里離れた山奥の永寿(えいじゅ)峠と呼ばれる峠を訪れていた。
 永寿というとなんとも縁起が良さそうなものだが、この峠には少し妙な噂があった。
 夜になると、赤ん坊の声がそこかしこから湧き出すのだそうだ。
 私はその類の話が大の好物だったため、それなら、とすぐさまその現場へと赴く支度を始めたのだが、泊まった民宿のおかみからひどく心配された。「ほんまに行かはるんけ」と執拗に言われたが、結局懐中電灯片手に一人その峠へ向かったのだった。
 時刻は夜中の二時に差し掛かろうとしていた。さすがに十月の夜は冷え冷えとしており、もう少し厚着をしてくるんだった、と後悔した。
 秋風に吹かれて木々がざわめく音が聞こえる。所々で虫達がりぃりぃと鳴いていた。峠の中腹辺りまで登ってくると、目下にぽつぽつと民家を認め、ずっと奥には町の影が見えた。
 そんな中、どこからか先程まで聞こえていた秋の季節の音とは違う音が聞こえ始めた。私はそれを聞き逃さまいとするように耳を澄ます。

……おんぎゃあ、おんぎゃあ
……おんぎゃあ、おんぎゃあ

 赤ん坊の声だった。声、というよりは泣き声と呼ぶのが適切だろうか。その泣き声が、四方八方、至るところから湧き出している。地中深くから這い寄るように聞こえ出したその泣き声は、地面から徐々に登ってきて私の下肢に絡み付く。あまりにも気味が悪く、怖気が全身を走った。
 私は急いで峠を降ろうと足を動かす。最中にも泣き声は止むことなく聞こえるが、その中にさらに別の声が混じりだす。

……くふふ、くふふふ
……あはは、あははは

 これは、幼児か、それくらいの少年少女の笑い声だろうか。幼い笑い声が、木々の陰やそこらの草むら、先程まで私がいた峠の辺りから降り注いできた。
 私は全身全霊で峠を降った。もうその場にはいたくなかった。あの声を聞いているとどうにも苦しいのだ。気味の悪さももちろんだが、なぜだか悲しくなるのだ。
 峠の入口まで降りてくると、もう声は聞こえなくなっていた。ふと入口に、行きの時には気にもしなかった地蔵があることに気がついた。
 懐中電灯を当ててその地蔵を観察する。よくあるお地蔵様だ。灯りを顔のあたりに当てると、地蔵が子どものように、にたぁ、と笑みを浮かべたような気がした。

 後に聞いた話だが、昔、永寿峠は別の名前で呼ばれていたらしい。
 嬰児(えいじ)峠。嬰児とは、生まれたばかりの赤ん坊を指す言葉だ。
 その昔、この峠では口減らしとして小さい子ども、とりわけ赤ん坊が捨てられていたらしい。もちろん、親としても苦渋の選択であったのだろう。捨てられた子どもたちのせめてもの供養のため、峠の入口に地蔵を立てたとのことだ。

10/12/2023, 11:54:01 AM

【放課後】

 放課後を知らせるチャイムの音が鳴り渡る。
 授業を終えた同級生、下級生たちは一斉に廊下へ駆け出し、数人のグループとなって帰宅を始めた。
 もちろん最上級生となった私も例外ではないのだが、未だ一人教室に残って宿題を進めている。

「華子ちゃん、お勉強?」

 そう声をかけたのは、同じクラスの女生徒だ。二人の友人を連れている。

「う、うん。もう少しだけ、勉強するの」
「まだ私たち小学生なのに、すごいね」
「そんなことないよ、することがないだけ……みんなは気をつけて帰ってね」

 私は彼女らに軽く手を振ると、向こうも「ばいばい」と残しながら背を向けて帰路についた。友人と言える程ではなかったが、私に気を遣って話しかけてくれる優しい子たちだ。
 私には友達と呼べる人間がクラスにいなかった。何もいじめられている訳ではないのだが、元より引っ込み思案な私は誰かと仲良くてきるはずもなく小学六年生まで上がってしまったのだった。
 少しだけ手を付けた宿題をとんとんと机で角を整え、そのままランドセルにしまう。こんな時間まで残っていたのは、何も宿題をするためだけではない。本来の理由は別のところにあった。
 私は教室を出て、階段を降り三階へ行く。階の端に設置された女子トイレに入り、入り口から見て三番目の個室の前に立った。個室の鍵には、中に人が入っていないことを表す青色のマークが記されている。
 この時間、三階の三番目の個室からは不思議な空気が漂っている。そこだけ異界につながっているかのような、現実とは違う空気の流れを感じるのだ。残念だが、言葉ではなかなか言い表せるものではない。
 私はその個室に、コンコンコン、と三度ノックして呼びかける。

「花子さん、あそびましょ」

 数秒の沈黙。
 その後、中から「は、あ、い」と可愛らしい少女の返事が聞こえたかと思うと、ギィィと鈍い音を立てて個室の扉が開いた。

「またあんたね。全く、暇人の相手をしているほど私は暇じゃないの」

 中から現れたのは、黒髪を綺麗なおかっぱに整えた可愛らしい少女であった。血色は悪く、顔や肌は少し青白いようにも思える。今時珍しい赤い釣りスカートを履いていた。
 花子さんは悪態をつきながらも、私を個室の中へ手招いた。
 私は放課後、時折この個室に遊びに来ていた。出会いはただの暇つぶしで、『はなこ』という同じ名前を持つ都市伝説に興味を持っただけなのだが、なんとも思いがけず波長が合ったのだ。

「ねぇ、花子さん。私、今日もクラスの子とうまく話せなかったの。こんなので中学生になれるのかな」
「何、また恥ずかしくなっちゃったの?」
「……だって、何か話そうと思うと、つまんないって思われないかなぁ、とか気になっちゃって」
「あのね、あんたに話しかけているクラスの子は、あんたと話したいからわざわざ話しかけてるのよ。あんただって、私と話したくてわざわざここまで来てるんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったらいいじゃない。私なんて、話せる人間あんたくらいしかいないんだから。あんた、根はいい子なんだから素直になんなさいよ」
「……ありがとう、花子さん」
「ああ! くすぐったい! そんなことより、人間の世界でなんか面白いゲームとか、ニュースとか、ないの!」

 こうやって、私が相談して花子さんが答える、というのがいつもの流れだった。たまに花子さんから人間界について聞かれることもあった。
 花子さんは、私の背中を押してくれる。私のことをよく理解してくれている。
 中学生にあがると、もうこのトイレも使わなくなってしまうのだろう。 私の小学校生活を支えてくれたのは紛れもなく花子さんであり、この放課後の時間だった。
 あと数ヶ月余りに迫った小学校で過ごす放課後を、私は最愛の友人と共に大事な思い出として心に留めるのだ。

10/7/2023, 4:46:34 PM

【力を込めて】

 ぎぃこぎぃこと船を漕ぐ。櫂が鳴らす一定の音色は心地良く私の耳に染み付き、やはりこれは天職なのだと悟った。
 私は川の渡守だった。川と言ってもただの川ではない。上流から下流まで、果てしなく霧が立ち込め全貌を計り知ることのできない広大な川だ。向こう岸へ渡るのにおおよそ二ヶ月弱掛かる。ほぼ海と言って過言はないだろう。
 客は一人だった。無精髭を生やしているが、まだ若々しさが見て取れる。それでも、顔に生気は宿っておらず、視点もどこか虚ろとしていた。
 もうここ一ヶ月以上は二人で無言の時間を過ごしていた。男はずっと正座のままで、何も発しないし反応しない。ぼうっと水面に広がる波紋を眺めていた。
 もう少しで向こう岸に着く、という時に、私はふと思い立ち男に声をかけた。

「なあ兄ちゃん。あんた、何したんだい、そんな若いのに」

 男は水面から視線を私に移した。その目の奥はやはり濁っている。喉から声をだそうしているようだが、久方ぶりに喋るものだからがらがらと喉元で音が滞っている。

「ゆっくりでいい、話したくないなら話さなくたっていいさ」

 男は尚もぼうっと私を見つめるが、その口はパクパクと何かを喋ろうとしていた。
 少し経って、それがようやく音を出す。その声は痰が絡まって、その上やけにか弱く聞き取りにくいものだった。

「……お、おれ、いけないこと、したんです。やっちゃいけないこと、しちまったんです。とんでもねぇことしちまったんです」

 男はそう言いながら、か細い涙の筋を数本作った。飲まず食わずで脱水状態であるだろうに、涙はでるのだな、と私は感心した。男は後悔しているのだ。

「そうかい。これから行くところは兄ちゃんの罪の重さを決めるところだがな……まあなんだ、成るように成るさ。兄ちゃんが何したか知らねぇけど、冥土にだって情状酌量ってやつはあるからよ」

 男は膝の上に置いた拳を握りしめていた。顔は後悔の表情で余計に歪んでいく。
 私が彼の行いを知らない、というのは嘘だ。三途の川の渡守は、乗る者が生前何をしたのか全て把握しているし、そこから大方どのような判決が冥土で下されるのか予想ができた。
 彼は両親を殺め、その後自ら命を断ったらしい。原因は介護疲れだそうだ。もちろん根本の理由がそれなだけであって、もっと多角的な要因が隠れているのだろう。
 殺人は重罪だ。それも両親。それでも細かな要因を辿っていけば、あるいは刑が軽くなるかもしれない。
 こうして嘘をつきながら声をかけることが正しいことかは未だ判然としない。過ちなのかもしれない。それでも私は、冥土へ逝く者たちが少しでも報われるように、こうして手向けの言葉を力を込めて投げかけるのだ。

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