ハイル

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10/7/2023, 12:57:12 AM

【過ぎた日を想う】

 ある一匹の働きアリは、餌を探し求めてとある家屋に入り込んだ。餌の匂いを頼りにあちこちをさまよい歩く。家主に見つからないよう、端の方をとたとたと辿った。
 匂いは戸棚の方から降りてきていた。アリは匂いの源泉を求め上まで這い登る。
 木製の戸棚には所々に錆びた螺子が打たれていた。そのうちの一本、周りのものとは違い支柱から飛び出し体が露わになった螺子が、アリに話しかけた。

「ちょっとちょっと、そこのアリさん。少し話し相手になってくれやしないかい」
「はぁ、私、急いでいるんですが」
「なに、家主は今外に出ているんだ。見つかりやしないよ」
「それであれば、少しなら」

 錆びた螺子はその返答を聞き満面の笑みを浮かべた。
 螺子は久々に他者と話したのか、よく口が動く。話を聞くところによると、どうにも歳のせいか錆がひどく、余命僅からしい。

「それは、お気の毒ですね」
「ははは、そう心配しなくていいんだよ……ところでアリさんは、今、生きていて楽しいかい?」

 螺子は柔和な声色でそう尋ねた。
 アリはすぐには答えられなかった。日々働き詰めの、巣に餌を運ぶだけの毎日だ。それが当たり前であって、楽しいかどうかなんぞ考えたこともなかった。

「……わからないです。上手くいかないこともあって、楽しいだなんて考えたことはないかもしれない」
「難しいよなぁ。でもね、時間ってのは有限なんだ。特に君たちのような、命あるものは」

 アリは黙ってその話を聞いていた。
 螺子は構わず話し続ける。

「体だって永遠じゃない。僕みたいな単なる螺子も、身は錆びるしいつかガタがくる。一人じゃ何もできやしない。でも、また巻かれることでもう一度踏ん張ることができるのさ。役に立つことができるんだ」
「それは、螺子さんが望んだことなんですか? それで楽しいんですか?」
「ああ、僕は命を持たないものだからね。一本の螺子としてこの戸棚を支えることが僕の使命なんだ。でも君は少し違うだろう? 働きアリとして社会の歯車の一部分を担っているんだろうけど、脳みそを持って、日々懸命に生きてる。何度でも言うけど、時間は有限なんだ。過ぎた日を想っているにはあまりにも時間が足りないんだよ。それなら毎日を楽しんだ方が余程利口さ」
「……螺子さんも、悩むことってあるんですか」
「そりゃあ、そろそろこの戸棚も新調かなぁ、なんて思うことはあるけどね。そんなこと考えたって仕方ないさ。僕に何かできるわけはないし。……と、話し過ぎたね。歳を取ると若い子に説教じみたことを言ってしまって自分が嫌になってしまうよ。そういえば--」
「もう結構です」
「あ、そう?」

 アリは話が長引きそうだったので、ぴしゃりと螺子の言葉を遮る。少し寂しそうな螺子の顔が良心をチクチクと痛めた。

「でも、なんだか楽になりました。お元気で」
「そうかいそうかい、嬉しいこと言ってくれるねぇ。アリさんも達者でな」

 アリは螺子へ別れの挨拶をすると、餌の源泉へ再び足を向ける。戸棚を登っている最中、ふと周囲の景色が視界に入った。
 だだっ広いリビングだ。人間が使う特大サイズの家具が所々に座している。
 アリはその景色がやけに気になった。先の螺子の影響だろう。匂いの源泉から引き返し、この景色のあちこちを散策してみたくなった。彼の話で、少しだけ、世界が開けた気がした。

10/3/2023, 4:34:19 PM

【巡り会えたら】

 僕は小さな小さな命を持ってこの世に産まれた。
 小さな、というのは何も比喩的な表現ではない。本当に小さな命なのだ。
 僕は、僕よりも小さな命を食べて暮らしていた。それはぶんぶんと飛び回るハエであったり、草陰にじっと構えるバッタであったり。そいつらが目の前に現れたら、備わった鎌で餌を捕らえ雁字搦めにするのだ。
 そんなある日、僕は恋に落ちた。同種のメスだ。豊満なフォルムに大きく愛らしい複眼。一目惚れだった。僕たちは番となり、本能が赴くままに交尾をした。
 交尾中、彼女はじっとこちらを見つめていた。少し照れて僕も見つめ返す。彼女のクリクリとした複眼は、僕の顔を一つひとつの個眼に反射して映し出していた。
 すると、突然彼女がその強靭な鎌で僕を押さえつけ、頭の端を顎で噛み砕いた。ごきりと僕の頭が割れ、中を満たす体液が溢れ出す。しゃくしゃくという咀嚼音が谺する。彼女は美味しそうに僕の一部を食んでいた。
 僕はふと、ヒトという生物について思い返していた。生物界を支配していると言っても過言ではないヒトという種族は、番になると生涯愛し合い連れ添い続けると聞いた。
 体液が溢れ死がその際まで差し迫っていることを感じる。もし違う形で君と巡り会えたなら。例えそれが叶わぬことだったとしても、そう思わざるを得なかった。

10/1/2023, 12:44:32 PM

【たそがれ】

 日がゆっくりと沈み始める。夕焼けは徐々に夜空へと移り変わり、昼と夜の境界が淡くぼんやりとしていた。
 太陽がその身を隠すと、それに合わせるようにひょっこりと姿を現す者たちがいる。
 逢魔時が始まるのだ。人間らは黄昏時とも呼ぶらしい。

 どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
 どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。

 ほら、賑やかな音が聞こえてきた。
 そいつらは何も二、三匹で現れるわけではない。百鬼夜行、おどろおどろしい異形たちの行進だ。
 鼓や三味線、琵琶の付喪神たちは自ら音を奏でている。
 その一歩後ろをがらがらと進むのは、どでかい顔が貼りついた牛車の妖怪。そいつの中から何者かが声を出し、どでかい顔と何かを話していた。

「おぅい朧車、もう少し早くできんかぇ」
「なにを言う取りますか。轢いちまったらとんでもねぇ」
「そうかいそうかい。であれば、あっしはゆったり外の景色でも見ていようか」
「おお、おお、それは良いご身分ですなぁ」
「なんとでも言っておけ」

 会話が終わったのか、朧車と呼ばれた牛車の物見から、ぎょろりとした二つの目玉が外界を覗く。そこには、目玉の他に真っ赤な複眼が備わっていた。そいつはまたも牛車の中に姿を隠すと、今度は朧車の背中についた簾を上げ、その全身を晒した。
 そいつは、妖艶な雰囲気を纏った美しい女だった。人間の四肢の他に背面から四本の、毛の生えた昆虫のような脚が生えており、蜘蛛を彷彿とさせる。その脚は節をうねうねとさせ、まるで別の生き物かのように蠢いていた。

「絡新婦(じょろうぐも)や。後ろの景色はどうですかな」
「行列のケツはどこにあるやら。果てしなく遠くにも灯りが見えるぞ」
「かっかっか。さすがは百鬼夜行、愉快ですなぁ」

 どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
 どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。

 賑やかな御囃子を奏でる異形の行列は、今日もまた、この国のどこかの通りを練り歩くのだった。

9/28/2023, 4:56:30 PM

【別れ際に】

 私は見知らぬ土地に立っていた。
 頭上には多くの大木から張り巡らされた無数の枝葉が生い茂る。空すら拝めぬ暗闇のカーテンは、鬱々とした空気を周囲に漂わせていた。
 眼前にも同様に暗闇が続いているが、そこに一人、白装束の人間が立っていた。顔を手で覆い隠しているため誰かは判然としない。長い髪を後ろに垂らしているのでおそらく女性だろう。
 女は顔を隠しながら震えた声で話しかけてきた。

「私を見ないでくださいな」

 聞いたことのある声だ。ぼんやりと声の主を思い浮かべるが、顔にモヤがかかっておりどうにも思い出すことはできない。
 女は時折しゃくり上げながら、尚も話しかけてくる。

「あなたがこちらに来るのはまだ早いの。後ろに灯りが見えるでしょう。その灯りを目指して早くここから出て行って」

 背面を見据えると、確かに彼女が言った通り小さな灯りが見えた。
 正直、言っている意味はよくわからなかった。しかし、彼女の言った通りにしなければ、何か取り返しのつかないことが起こるのではないか、という恐怖が内から湧き出ていた。
 私は彼女に礼をいい、背面の灯りに向かって歩みを進める。灯りは坂の上からこちらを照らすように光を放っていた。
 坂を登る前に、もう一度助言をくれた彼女に礼を言おうと振り返る。
 そこで私は見てしまったのだ。露わになった彼女の顔を。
 彼女の顔は、元々そこに張り付いていたであろう皮膚が腐り落ち見るに堪えないものだった。眼球の一つは完全に外れ眼窩に深淵が広がっている。もう一方は視神経の一つでなんとか繋がっているのか、ぷらんぷらんと宙に揺れていた。

「……だから、言ったのに」

 その一言を皮切りに、私は全力で坂を駆け上がる。
 私は彼女のことをよく知っていたし、この話にも聞き覚えがあった。
 別れ際の彼女の顔も表情も、あの悲しげな声色も、私は全てひっくるめて一生涯忘れることはできないだろう。

9/27/2023, 10:34:47 AM

【通り雨】

 私は代わり映えしない帰路を辿っていた。
 等間隔に並ぶ電灯、風に葉を揺らす街路樹、家族団欒の声が聞こえる一軒家。
 私はそれぞれをぼうっと眺めながら物思いにふける。
 明日も明後日もその先ずっと、今日みたいな日が続くのだろう。昨日もそうだったのだから、多分間違いない。
 そんなことを考えていると、向かいから女性が歩いてきた。少し下を俯きながら、早足になっている。肩に提げたビジネスバッグをギュッと握り締めていた。
 私は彼女が通れるよう、少しだけ左に身を寄せる。
 彼女との距離が縮まったとき、私はあるものを目にした。
 涙だ。彼女の瞳はうるうると輝き、そこから大粒の涙を落としていた。
 彼女はそのまま通り過ぎる。 すれ違いざま、何かがカランカランと落ちる音が聞こえた。
 咄嗟に地面に目を落とすと、足元に転がってきたそれは、リップクリーム、だろうか。私のものではないので、彼女のものだろう。
 私は屈んでそれを拾い上げた。彼女は気がついていないのか、すたすたと歩みを進めてしまっていた。
 引き止めるべきか否か、私は考えあぐねた。涙する女性にどう声をかけるべきなのか。今は一人になりたい気持ちかもしれないし、見知らぬ男に声をかけられたら気分を害すかもしれない。
 私はどうにも消極的にその状況を捉えていたが、最後には結局足を彼女に向けて進めていた。
 通り雨のような彼女。私は彼女が降らした涙に儚さを感じ、身体を突き動かされたのだった。

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