ハイル

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【力を込めて】

 ぎぃこぎぃこと船を漕ぐ。櫂が鳴らす一定の音色は心地良く私の耳に染み付き、やはりこれは天職なのだと悟った。
 私は川の渡守だった。川と言ってもただの川ではない。上流から下流まで、果てしなく霧が立ち込め全貌を計り知ることのできない広大な川だ。向こう岸へ渡るのにおおよそ二ヶ月弱掛かる。ほぼ海と言って過言はないだろう。
 客は一人だった。無精髭を生やしているが、まだ若々しさが見て取れる。それでも、顔に生気は宿っておらず、視点もどこか虚ろとしていた。
 もうここ一ヶ月以上は二人で無言の時間を過ごしていた。男はずっと正座のままで、何も発しないし反応しない。ぼうっと水面に広がる波紋を眺めていた。
 もう少しで向こう岸に着く、という時に、私はふと思い立ち男に声をかけた。

「なあ兄ちゃん。あんた、何したんだい、そんな若いのに」

 男は水面から視線を私に移した。その目の奥はやはり濁っている。喉から声をだそうしているようだが、久方ぶりに喋るものだからがらがらと喉元で音が滞っている。

「ゆっくりでいい、話したくないなら話さなくたっていいさ」

 男は尚もぼうっと私を見つめるが、その口はパクパクと何かを喋ろうとしていた。
 少し経って、それがようやく音を出す。その声は痰が絡まって、その上やけにか弱く聞き取りにくいものだった。

「……お、おれ、いけないこと、したんです。やっちゃいけないこと、しちまったんです。とんでもねぇことしちまったんです」

 男はそう言いながら、か細い涙の筋を数本作った。飲まず食わずで脱水状態であるだろうに、涙はでるのだな、と私は感心した。男は後悔しているのだ。

「そうかい。これから行くところは兄ちゃんの罪の重さを決めるところだがな……まあなんだ、成るように成るさ。兄ちゃんが何したか知らねぇけど、冥土にだって情状酌量ってやつはあるからよ」

 男は膝の上に置いた拳を握りしめていた。顔は後悔の表情で余計に歪んでいく。
 私が彼の行いを知らない、というのは嘘だ。三途の川の渡守は、乗る者が生前何をしたのか全て把握しているし、そこから大方どのような判決が冥土で下されるのか予想ができた。
 彼は両親を殺め、その後自ら命を断ったらしい。原因は介護疲れだそうだ。もちろん根本の理由がそれなだけであって、もっと多角的な要因が隠れているのだろう。
 殺人は重罪だ。それも両親。それでも細かな要因を辿っていけば、あるいは刑が軽くなるかもしれない。
 こうして嘘をつきながら声をかけることが正しいことかは未だ判然としない。過ちなのかもしれない。それでも私は、冥土へ逝く者たちが少しでも報われるように、こうして手向けの言葉を力を込めて投げかけるのだ。

10/7/2023, 4:46:34 PM