【形の無いもの】
形の無い者に目をつけられてから、私はひたすら山道を登っていた。人の往来により作られた獣道をハッハッと過呼吸になりながら駆け上がる。
獣道は綺麗に舗装されているとは言い難く、時折地上に張り巡らされた木の根に足をすくわれ転けそうになる。なんとか体勢を保ち、追手が迫っていないか後ろ目に確認した。
形の無い者は私の背後から二メートルほど間隔を置いて追ってきていた。形は無いが、空気の歪のようなものがぼんやりと浮かんで見える。私が通った道がその奥に透けて見えるので、"形は無いがそこにいる"ことは確かだ。
それは形こそ無かったが「オォォ……オォォ……」と鳴き声のような音をあげていた。人間の声だ。理性をなくした人間の鳴き声はああいった感じなのだろう。
その声からは、怨嗟、嫉妬、憐憫、憤怒などといった人間の内部に黒く渦巻く負の感情が混ざり合っていることが窺える。少なくとも私はそう感じた。あの声を聞くと、どうしても耳を塞ぎたくなるのだ。
負の感情の集合体は、行き場を探しているのだろうか。
ふと、私は背後に形の無い者を感じながらそう考えた。
人が抱えきれなくなった感情の集合体があれならば、それは本来あった場所――人間の内部に帰ろうとしているのではなかろうか。
だからといって、自分がその受け皿になり正気を保てる自信は微塵もなかった。自分一人の感情の起伏ですら身が張り裂けそうになるのに、他人が抱える負の感情を請け負うなんて。それは、この世で考え得る中でも非常に過酷な拷問ではなかろうか。
本来であれば、負の感情は適切に発散され、浄化していくものなのだろう。しかし、それを誤れば背後に迫る集合体のように、他者に理不尽にぶつかる暴走した感情と成りかねない。
私は依然「オォォ……」と悲痛な鳴き声を上げる形の無い者から逃げ惑う他なかった。
【ジャングルジム】
公園にあるジャングルジムの上で、僕は地面を見下ろしていた。
着地点を想定し飛び降りる準備をしたが、足がすくんで動けない。握り締めた鉄の格子に手汗がつき、滑り落ちてしまいそうだった。
後ろから声がかけられる。
「おーい、大丈夫?」
幼馴染の長谷川だ。肩に掛からないくらいで切りそろえた髪が風に吹かれて揺れている。
「だ、大丈夫。飛べるよ」
「無理しなくていいって。ほんっとうに意気地なしだな〜」
「飛べるもん! ちょっと考えてたんだ。そう言う長谷川は飛べるのかよ!」
「ウチは飛べるよ〜」
長谷川はそう言うと、華奢な体躯からは想定できないほど高く飛び降りる、もとい跳び降りた。
姿勢を正したまま綺麗に着地した長谷川は、僕の方を振り返りニッと笑いかける。
「ね? 綺麗だったでしょ?」
「……ま、まあ、すげぇじゃん」
「素直じゃないなー!」
長谷川は大きな口を開けて笑い出した。
馬鹿にされてるみたいでこっぱずかしかったが、長谷川はただ単に楽しくて笑っているだけだろう。彼女はそういう人間だった。
あの日以来、彼女は僕が成し得ないことを成し遂げる、憧れのような存在になった。
そんな憧れだった長谷川が、この間亡くなった。
五階建てのビルから飛び降りたらしい。
本当の理由は知らないが、俺は仕事上のストレスだか人間関係だかを疑っている。この間もその類の相談を持ちかけられたからだ。俺は彼女の話を聞くことしかできなかった。
憧れの長谷川が徐々に萎んでいくのを、俺は見ていられなかった。
「ようやく解放されたんだな、長谷川」
俺は夜空を見上げて呟いた。
そのまま足を一歩踏み出す。下を見なけりゃ怖くない。
俺の身体が十階のビルから真下に落ちていく。ゴウウウと荒々しい音を立てながら風が俺を包み込む。
見てるか長谷川。俺、お前よりも高いところから飛んでるぜ。
最後の最後に憧れの人を追い越せたのが嬉しくて溜まらず、俺は自然と笑顔になりながら真下の地面に直撃した。
【声が聞こえる】
日が沈むのが早まり、薄手の半袖一枚では肌寒くなってきた九月下旬。私は小学校の同級生六、七人と、山道の途中にある廃屋にいた。小学校の裏山にあるその廃屋には幽霊が出ると噂されており、遊び場の開拓兼肝試しのために足を運んだのだ。
山道といっても、この町と隣町を繋ぐ国道であるためそれなりの交通量がある。時折背後からブオオンとガスを撒きながら加速する車の音が聞こえた。
そんな山中に佇んだ廃屋は、その周囲だけが静寂に包まれている。山道から一歩踏み出すと、そこはまるで異世界のようだった。
廃屋は二階建てであり、近寄ると巨大な家の怪物のようだ。家自体に覆いかぶさるように生えた周囲の木々が闇を落として、その雰囲気をより一層不気味にさせている。
「おい、隠れんぼしようぜ」
皆が廃屋の中に足を踏み入れると、仲間の一人がそう提案する。
正直に言うと、私は物凄く嫌だった。この場所は暗くてじめじめしていて、廃屋の中に人間以外の何かが巣食っている気がしたからだ。それでも、ここまで来てしまっては、今更否とは言えるまい。
弱音を吐きながら文句を垂れる者もいたが、誰かが「最初はグー」と声をかけると、誰も遮ることなくすんなりと鬼が決まった。
「見つかったら玄関で待機な」
リーダー格の少年はそう言うと廃屋の中に進んでいく。私もその後を追った。
長くこの家の中に隠れているのが嫌だったため、すぐに見つかるであろう手頃な隠れ場所を探す。私は入って直線に進み一つ部屋を飛ばした先にあるキッチンに隠れることにした。
もう何年も前に役目を終えたキッチンには、以前の住民が使っていたであろう生活品がまだ残されていた。まな板や鍋がそのまま置きっぱなしにされている。生々しさを感じるためなるべくそれらを目に映さないよう、私はテーブルの下に身を隠した。
「……さーん、にーい、いーち。もーういーいかーい」
鬼が問い掛けると「もーういーいよー」と家中から幼い声があがった。
それからは鬼が来るまでじっと身を潜めるだけだった。鬼はすぐに私を見つけた。そのまま玄関まで連れだされ、私より先に見つかった仲間と皆が捕まるまで駄弁っていた。
「お前、この間出たマリオ買った?」
捕まった仲間の一人が私に問いかける。
「いや、うちファミコンないもん。もしかして買ったの?」
「そう、この後みんなで家来ない?」
少年が周りの皆にも「この後どう?」と誘っている。
すると、最後の一人を探していた鬼が戻ってきた。最後の一人は三浦くん、通称みっくんだ。しかし、鬼の隣にみっくんの姿は見当たらない。
「あれ、みっくんは?」
「んや、あいつ隠れんの上手くて見つかんねぇわ。それより、何の話で盛り上がってたんだ?」
「この後家でマリオするんだけど、お前も来ない?」
「まじ? 行く行く!」
そのうち、私たちはみっくんのことをすっかり忘れて山を下ってしまった。
みっくんのことを思い出したのは、新作のゲームを堪能して家に帰り布団に就いたときだった。今更みっくんのことを親に言うと絶対に怒られることがわかっていたので、言い出すことができなかった。それに、みっくんだって馬鹿じゃないんだから一人で帰っているだろう、と私は思い込むようにした。
次の日から、みっくんを学校で見ることはなかった。
私はそこで目を覚ました。ひどく汗をかいている。
嫌な夢を見ていた。幼い頃の記憶の断片だ。どこまでが本当だったか定かではない。小学校の級友とは久しく会っていないし、会ったとしても彼のことを話そうとはしないだろう。
彼が学校に来なくなってから、あの日集まった私たちは彼の話をしなくなった。彼は、あの日を境に学校が嫌になったのか、それともあの町から引っ越したのか。そもそも、本当に存在したのか。私は全ての記憶に蓋をしてしまったみたいだ。
ただ一つ言えることは、未だに彼の幼い声が、私の耳にこびりついているということだ。少なくともあの声は実在している。
彼はまだ私たちから隠れている。私たちが探しに来るのを待っている。
ほら、今もふすまの奥から声が聞こえる。
「もーういーいよー」
【秋恋】
ほぼ定時で退勤したというのに、外に広がる夕日は既に沈もうとしていた。
最近、日が沈むのが早くなってはいないだろうか。私の気のせいなのだろうか。
この『気のせい』を繰り返していると、いつの間にか冬を迎え、さらに繰り返すと秋になる。人間の時間の進み方は、気にしていなければいつの間にか人生が終わっているんじゃないかと思えるほどに早かった。実際、私は気づけば還暦を迎えようとしていた。
私は帰宅ラッシュの電車に揺られて自宅を目指す。吊革に掴まり自分のスペースを確保するが、周囲の人々ともみくちゃになって息苦しい。じめっとした空気が電車内に漂っているのも不快だ。
何故行き帰りの電車でこんな苦行をしなければならないのだ、と辟易した。これは老体に堪える。
帰宅すると、疲れた体を一旦ソファに沈める。長年連れ添った革張りのソファは、ぎしぃと音を立てて私を包み込んだ。
そのままの体勢でオープンキッチンの方を振り向くと、
『ご飯、できてるよ』
と声が聞こえたような気がした。
これは気のせいだ。彼女はもういない。
二人の子どもは数年前に自立して家を出て行った。
家には私ただ一人。
この『気のせい』ももう何度目かわからない。四季折々の食材を用いて彼女が話しかけてくれるので、そこから「ああ、あの日のことか」と過去を思い返せるのは幸せだった。
リビングの隅に置いた仏間に目をやる。
『気のせい』を感じる季節になると、いつも君のことが恋しくなるよ。
私は心の中で、彼女にそう話しかけた。
【大事にしたい】
漫然とつけたテレビが、今朝起きた事件の報道を流している。
バラバラの遺体がポリ袋に詰め込まれて見つかったらしい。いわゆる猟奇的な殺人事件だ。見つかったのは胴体と四肢。四肢はさらに切断され、細かく分けられていたとのことだ。
「これ、どれくらいの労力がいるんだろうな」
私は彼女に問いかける。
だってそうだろう。人間の体を一回刻むのに、どれくらいの時間を費やすのか想像がつかなかった。
「生きながら切られたらどんなに痛いんだろうね」
私は続け様に質問を投げかける。
彼女から返答はない。
首から上だけの彼女は、昨夜不審な男と出くわした時に買い取った。危うく自分が殺されそうになったが、隠蔽工作を手伝ってやると言うと、存外素直に応じてくれた。
私は男に、遺体を切り刻み、指紋を消すことを提案した。頭はこちらが貰うから、遺体の身元が割れるまで時間を稼げるだろう、とも伝えた。
男は私に従い、まずは首を鋸でギコギコと切り始めた。刃が通らないのか、時折骨か何かに引っかかりギシと嫌な音が聞こえたが、何度も引いていると首はゴロンと胴体から切り離された。鮮血が飛沫を上げ、流血がてらてらと輝いていたのを鮮明に覚えている。
あの時彼女が生きていたかどうか、その後あの男がどのようにして遺体を処理したか、私は何も知らない。
私はその首を自宅へ持ち帰り、今日もこうして彼女に話しかけている。薄白く滑らかな肌、長く透き通るようなロングヘア、閉じたままの瞼。どれも魅力的だった。
彼女は、いずれ腐ってしまうとわかりきっているからこそ今を大事にしたいと思わせる、一種の儚さを持っていた。