話し方、目の泳ぎ方、笑い方
貴方の「好き」は殆ど星座
あの瞬間を待望している。感動ではない。涙で、流れてしまうような淡いものではない。───悦楽!とんでもないものを読んでしまった、読む前と読んだ後で、人間が全く変わってしまう、あの瞬間。そのために、聖書も禁書も平等に貪る。私は本から内臓を引き摺り出し「光り物」を探す烏になる。ちょうどいい場所をと、書棚に飛び乗り湖を見る。白鳥が泳いでいる。淑やかに水面を滑り、時々他の者と首を絡ませる。なんて滑稽なんだ。水の中で足を必死にバタつかせている癖に。私は笑う。笑うが、自分の醜い声を思い出し、口を閉じる。
黒くては影から出られない。声が悪くては愛されない。生まれの呪いを忘れるには、何よりも悦楽が必要なのだ。頁を捲る。重い煙のような失望が胸を染める。ああ、神様!どうか心までは取り上げないでください。他の烏達のように、金になるものを美しいものと感じるようには、なりたくないのです。
ほんの数回頭上に降りかかった程度の、白鳥たちに注がれたものとは比べ物にならない程ささやかな、奇跡を信じている。悦楽の残骸を抱いて眠る夜を……。
夜明け前に目が覚めた。先輩の家に行く夢を見た。
夢の中でも先輩の顔を思い出すことは出来ない。あの時は顔を見て喋れなかったから。ただ声だけが鮮明で、起きた時に、夢の中でもう少し話せばよかったなと思った。夢が過去の回想であるように、夢の中の私は当時の口下手に戻っていた。もし、今話せたら。
タオルケットをかけ直して、去年のことを思い出す。
先輩と再会した日。驚くほど一般的な喋り方で、女の子の後輩ならこう喋るだろうといった感じで、当たり障りの無いことを話した日。それでも、その中に一摘みだけ真実を、今まで誰にも言ったことのない「哲学科に進みたい」ということを話した。話さなければ良かったと思う。叶わなかったから。それに、言えなかったことが沢山あった。なぜ今さら私に話しかけたのか、私が貴方にしてしまった仕打ちを忘れたのか、なぜ掘り返すような真似をするのか。
それでも、何かしらの決意が生じての行動だったに違いない。それを分かっていた。分かっていながら、それを表面だけで流していた。私はあとどれだけ冷たい人間になれば気が済むのだろう。
先輩は私を卒業旅行に誘った。ああ、先輩はまだ私が「遠くに行きたい」と言った時のことを覚えているんだと思った。遠く。私の遠くは、誰も来ることの出来ない場所。愛する人でさえも拒絶する場所。
先輩は「またね」と、私は「じゃあね」と言った。
無邪気に未来を信じられる貴方が羨ましいと思った。
その先生の声は驚くほどすっと入ってきた。
それは多分、その先生が黒板に向かって話しているのでも教室の後ろに向けて話しているのでもなく、私たちに語りかけてくれていたからだった。その先生はいつも、「授業なんぞ聞くフリさえしていてくれれば何してようが気にしない」というスタンスでいた。恩恵に預かる生徒も無論、多かった。
授業は先生の話だけで進行した。教科書は使わなかった。先生は哲学者について解説し、時々思い出したように家の庭の話や、ラテン語の話や、初恋の話をした。生徒達は無駄話が挟まる度にうんざりしていたようだったが、私は先生が人に戻る瞬間を楽しみにしていた。その時だけ私も生徒ではなく人だった。
その人がその人であるだけで救われるということを、私はあと何回経験できるのだろうか?少なくとも、あの先生が貴重な一回であったことは間違いない。
私はあの雑な板書を思い出す。号令のない授業を、締まりの無い終わりを思い出す。先生からすれば、きっと記憶にも残らないような些細なことを握りしめて。
今日も哲学の本を開く。
最後のLINEは「ハッピーバースデー!」だった。それを受け取った日、私はありがとうのスタンプだけ送って、先輩をブロックした。
何度となく彼を拒絶した。私にとって絶縁だけが、忘却だけが、未来に進む方法だったから。自分から引っ付きに行っといてなんなんだろう。恋愛は私が思っているよりもずっと恥ずかしくて、情けなかった。自意識の肥大そのものだった。先輩のことを知れば知るほど自分の歪みが浮き彫りになっていく。隣にいたいのに、いるには決定的な何かが足りないような気がした。
取り繕って、嘘を重ねて、へらへらして、ようやくこのノーマルエンドに辿り着いた。良い思い出。自意識過剰だった、あの頃の意味不明で輝かしい思い出。
私はずっとそれになりたかった。
時々、LINEの背景と音楽を変える。
一週間位経って、先輩のも変わっていることに気づく。
その度に記憶の波にさらわれていく感情を、貝殻のように拾って海へ放り投げる。もうこの浜に来ちゃ駄目と。