彼女はいつも桃のような香りがした。すれ違う度にふわっと香るので、私はいつも香水を付けているのだと思った。しかし私の周りで彼女の香りに言及する者はいない、まして彼女が香水らしいものを振りかけている姿は見たことがなかった。
「私ね、春になったら拐われるの」
どうにか原因を探ろうとしていた最中、彼女は終業式の帰りにふと思い出したように言った。まるで恋人ができたとでも言うような口ぶりで。それがあんまり嬉しそうだったので、何に、とは聞けなかった。
それから私は彼女の香りについて探るのをやめた。
「また新学期に」と言って彼女と別れる。
その時の彼女は石鹸の香りがした。私の貸した制汗剤の香りだ。涼しい風。頭上の青葉がざわざわと揺れる。
私は心の中で、渡さないよ、と呟いた。
貴方は急に現れる。旅行の景色、読書の後、夢の中に。何もかも許し合えて二人で遠くに行く世界線。そんな妄想の中でさえ冷たい眼差しを注いでいる私を発見する。いつか居なくなってしまう。死なんて不可逆的なものじゃない、貴方が私に耐えられなくなる。
その前に終わらせて良かった。私のことが好きなままで。目の前にいる貴方に呟く。貴方は動揺しない。夕焼けを背にして、ただ幸せそうに薄く笑っている。
間違っている。こんな愛し方は間違っているのに。
私、今の貴方が一番愛おしい。
変な人だった。雨の日に傘を持ってこないような人。
先輩。曰く、片手が塞がるから嫌いなのだと。
馬鹿なんじゃないですか、と私は言うけれど、その人は私よりもずっと頭が良かった。
今、先輩のいない雨の日に、歩幅を合わせなくて良いことに安堵している。貴方に認められることだけを目標に生きてきた。他者の尺度。幸福。貴方は自由に見えた。固定観念に囚われない、効率主義者。貴方は傘をささないことで何かから身を守っていた。それを推察することさえ出来ずにいる。きっと雨は降ったままでいい。
私は何度も相合傘の二人を見送る。
世界の首都の、間違った回答を繰り返す。
8/26
自分の望みそのものみたいな夢を見た。
もう小説を書く必要はないんじゃないか。
世界は貴方だった。全ては貴方だった。それを思い出すのに、随分時間がかかってしまったような気がする。
始めは囁きで、時には形を持って私を慰める。誰、と顔を上げると消えてしまう。だからずっと気の所為だと思っていた。誰かに愛されたい、その願いが映し出す幻。
私はアイスコーヒーの、純度の高い氷の中に、その答えを見つけた。愛されたかった。その願いを叶えていたのはいつも、私だった。氷が溶ける。プリズムが光る。
ずっとそこにいたんでしょ?
氷が溶ける。水と交わる。貴方はいつも物の姿を借りている。氷が溶ける。氷は言う。貴方のこの世界が、少しでも天国に近づくようにと思ったから。
透明を通して世界を見ている。
氷はやがて完全な水となって、静かに私の中に溶けた。