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彼女はいつも桃のような香りがした。すれ違う度にふわっと香るので、私はいつも香水を付けているのだと思った。しかし私の周りで彼女の香りに言及する者はいない、まして彼女が香水らしいものを振りかけている姿は見たことがなかった。
「私ね、春になったら拐われるの」
どうにか原因を探ろうとしていた最中、彼女は終業式の帰りにふと思い出したように言った。まるで恋人ができたとでも言うような口ぶりで。それがあんまり嬉しそうだったので、何に、とは聞けなかった。
それから私は彼女の香りについて探るのをやめた。

「また新学期に」と言って彼女と別れる。
その時の彼女は石鹸の香りがした。私の貸した制汗剤の香りだ。涼しい風。頭上の青葉がざわざわと揺れる。
私は心の中で、渡さないよ、と呟いた。

8/30/2024, 12:33:36 PM