"にんげんの背中には翼が生えている。無論、天使の名残である。人間の尻に猿の尻尾の骨があるように、にんげんには退化した羽根が生えている。キリスト復活から二〇〇〇年余、救済は全て彼が担うようになったので、神は天使に暇を与えられた。彼らは突然の自由に戸惑いつつしばらく天上で過ごしていたが、静かな天界から地上を見下ろす内、そのあまりの狂騒ぶりに魅せられ、ぽつぽつ地上に降りるようになった。そのうち人間と子を成すものも現れ出し、人間の進化と同じように、長い時間をかけて地上に順化した。それがにんげんである。"
────琉堂府・須田稲『神類史』 p112より引用
どこへ逃げたって社会になる。
例えばこうしてベッドで泣いているとして、そういう経験がある人は社会に出てからもやっていけると言われる。私の半生は、社会人の予行練習じゃない。
だから意味のないことを探している。ゲームみたいな商業施設じゃない。SNSみたいなお勉強でもない。そういう、本当の意味の遊び場。
友達は遊び場を求めて繁華街に行って、そのまま音信不通になった。今どうしてるかは知らない。楽しんでいたらいいなと思う。
私はというと、文字を書いている。遊び場はこの白い白い砂場しかない。地味だし、なんの生産性もないから、これもいいかなと思う。いつかシンデレラ城ぐらいデカい砂の城を作ったら、沢山の人を呼んでパーティーして、友達を招待して、目の前でその城に水をぶっかけて壊してみたい。きっとその子にはウケると思うから。
歩きながら寝てしまいそうな程あたたかい午後に、猫が死んでいる。それを見て、眠いなと思う。いつか私も同じように死ぬ。世界はそれを見て、眠いなと思う。今日も地球は惰性で回っている。あまりの退屈さに、ベンチでとろとろと眠りに落ちる。革命が起きて、戦争が起きて、人類が滅亡して、世界が終わって、再構築されて、十分経ったから、起きる。このまま帰るのも惜しいような気がして、その足で、コンビニの新商品を買った。
どんなに心が子供でも、割り切っていれば十分大人。
苦しいときのおまじない。
いい感じの芝生を見つけると、7歳の私が座りに走る。18歳の私は立っている。
歩道の小高いブロックで、10歳の私がバランスを取る。
18歳の私は道の右側を歩く。
知らない道の知らない神社、15歳の私が願い事をする。
18歳の私は通り過ぎる。
うっすら寒い夕闇に、18歳の私が目を留めて、
私は身体の在処を思い出す。