部屋を見て、「ここには何も無い」と気づいてしまった。昨日まではあったのに。私はそれを見て何かを感じ取れたのに。紙吹雪が床に落ちてただの紙の切れ端になる。ぬいぐるみがあの子じゃなくなる。褒められた記憶が先生の仕事になる。私は魔法を使い果たしたのだ。魔法は科学になって、科学は社会になった。魔法使いは言う、魔法は貴方が発達を乗り越えるため、自分を守るために作り出した物なのです。さらなる発達のためにトラウマを克服し、より安定した精神を手に入れましょう。
黒いヒールを片方、もう片方も脱ぐ。森へ放り投げる。
裸足になって脇道へ逸れる。後ろで馬車の走る音がする。私はそこで横になる。どこにも向かわない。どこにも向かえない。だって、どこに向かったって。
私達の物語は、広辞苑へと繋がっている。
海を見に行っても何も解決しなかった。広い鏡面。揺らいで、光の届かない未知を堪能している。私はその生命のスープの中に溶け込むことが出来ない。ここに私の群れは無い。波は誘うように広がって、惑わすように引いていく。物としての私は歓迎しているらしい。
しかし、駄目なのだ。私の中には物語がいるから。サンダルの底から水が染み出す。小学生の私がそこで燥いでいる。鼻に水が入って泣いている。中学生の私が日傘をさしている。日焼けに文句を言っている。私が「もう帰る?」と聞くと不服そうな顔をした。
そう。それなら、もう少し。
これは相対だ。オセロは言う。お前が白の時、裏は黒だろう。しかしお前が黒の時、裏は白だ。つまりどちらの立場を取るかということさ。お前が向こうの立場ならこちらは敵で、こちらの立場なら向こうが敵。正解なんてありはしない。
そうかもしれない。床に散らばったオセロを眺めて途方に暮れている。白黒黒白黒白白。でもそれは、グレーの選択肢が無いからかもしれない。駒を拾う。横から見る。境目は鯨羊羹みたいで綺麗。敵同士がそこにいることを許容している。相対の丁度真ん中。どっちでもないという選択。それじゃ試合は成立しないけど。
二色に分けるのはゲームを始めたい闘争心の裏返し。
毎日違う場所で眠るということ。世界にお気に入りの場所を持つということ。それらは容易に奪われうるということ。また次の場所を探し、妥協するうちにその場所が一番安らかに思えてくること。
じっと立ち止まって、私達には聞こえない音を聞く。彼らの世界は捕食/被食の鮮やかな版画。彼らは空を飛べることを自由だとは思わない。地を這いずる動物を羨ましいとも思っていない。彼らは世界である。世界がそうすれば自分もそうする。世界という胎の中で眠りながら起きている。不眠症の人間は、その安らかな寝顔を、心底羨ましいと思ってしまうのだ。
記憶がいる。私は行くなと言うが、記憶は私に小さな水晶の欠片を渡して微笑む。もう二度と戻るつもりはないそうだ。記憶の流れ着く浜辺とは、そんなに良いものなのだろうか、私とここにいるよりも。
記憶は首を横に振る。欠片を私に握らせる。それはひんやりとして、やがて体温に馴染んでいく。忘れたことさえも、忘れてしまうのだ。行くな。どこにも行くな。お前の魂なんか貰っても、何も嬉しくない。
記憶は掌の中で初めて口をきいた。
私の教えた詩だった。
「さよなら、どうかお元気で」