その先生の声は驚くほどすっと入ってきた。
それは多分、その先生が黒板に向かって話しているのでも教室の後ろに向けて話しているのでもなく、私たちに語りかけてくれていたからだった。その先生はいつも、「授業なんぞ聞くフリさえしていてくれれば何してようが気にしない」というスタンスでいた。恩恵に預かる生徒も無論、多かった。
授業は先生の話だけで進行した。教科書は使わなかった。先生は哲学者について解説し、時々思い出したように家の庭の話や、ラテン語の話や、初恋の話をした。生徒達は無駄話が挟まる度にうんざりしていたようだったが、私は先生が人に戻る瞬間を楽しみにしていた。その時だけ私も生徒ではなく人だった。
その人がその人であるだけで救われるということを、私はあと何回経験できるのだろうか?少なくとも、あの先生が貴重な一回であったことは間違いない。
私はあの雑な板書を思い出す。号令のない授業を、締まりの無い終わりを思い出す。先生からすれば、きっと記憶にも残らないような些細なことを握りしめて。
今日も哲学の本を開く。
9/3/2024, 3:59:41 PM