実家のあった場所から田んぼの並ぶ道を通り、山のある方向へ向かう。
登山道入口から少し進み、右側に外れて数分歩くと――あった。
「神様、お久しぶりです」
まるで時が止まっているような錯覚を覚えたが、すぐ現実に戻る。
子どもの頃何度も訪れた小さく古い社は、最後に訪れたときよりももっと荒れていた。胸元がぎゅっと掴まれたような心地になって、心を込めて掃除をした。
悲しんでも仕方がない。だって……特別な力のない私には、なにもできないから。
できることは、今までのお礼を、心を込めて告げるだけ。
できる限りきれいにしたところで、改めて社の前に膝をつく。
「私、幸せを見つけました」
私は幼い頃に両親を亡くした。母方の両親に引き取られた先が、この村だった。
祖父母はとても優しかったが、よそ者扱いをされていたせいで学校にはうまく馴染めず、両親がいない寂しさをなかなか昇華できなかった。
そのたびに、偶然見つけたこの社に逃げ込んだ。
『こういう場所にもね、神様はいらっしゃるんだよ。私たち人間を見守ってくれているんだよ』
最初はただいるだけだったけれど、祖父母と出かけたときに同じような社を見つけてそう教えてもらってからは、次第に話しかけるようになっていた。
その日あったこと、嬉しかったこと、ただの愚痴……何でも話した。
人ならざるものが見えていたわけではない。
明らかに「何か」を感じ取っていたわけでもない。
それでも、誰に話してもきっと信じてもらえないと思うけれど、まるで母親に抱きしめられているような、心地いいあたたかさがいつもあった。
胸中にできた深い傷が少しずつでも、確実に癒やされていた。
やがて高校を卒業した私は、大学生になるのを機に村の外へ出た。
『なるべく顔を出すようにしますね。そのたびに立派になったって思ってくださるよう、頑張ります』
それでも大学を卒業し、祖父母が亡くなると、訪れることも難しくなってきた。社を忘れない日は一日たりとてなかったけれど、約束をしたのは私だ。ただ、心苦しかった。
『それなら、今まで見守ってくれてありがとうございましたっていう気持ちを、伝えにいけばいいんじゃないかな?』
そう助言をしてくれたのは、夫になる予定の彼氏だった。
――謝るより、今までの感謝を。神様に心配をかけないよう、一人前に生きていくと頑張る決意を。
その想いを胸に、社へ来た。
「ここで情けない姿ばかりを見せてきた私を、好きになってくれる人と出会えました。神様みたいに私をいつも優しく見守ってくれる、私にはもったいない人です」
震えそうになる声を必死に堪える。
「今まで私が頑張ってこれたのは、神様がいてくださったおかげです。頼りない私を、辛抱強く見守ってくださっていました。本当にありがとうございます」
ああ、頬が冷たい。笑顔を作りたいのに、なかなかできない。
「実は、もうこちらへは窺えなくなりそうなんです。夫と一緒に、海外へ行くことになって。なので……お別れを、言いに来ました」
社が歪んでいる。もし神様に実体があったら、しっかりしろと頭を叩かれていそうだ。
「社のことは一生忘れません。本当に……本当に、今までありがとうございました」
両手を合わせて、深く頭を下げる。この想いを少しでも、神様に届けたい。
そのとき、明らかに強い風が身体を通り抜けた。
――これからも息災でな。もう、泣いてばかりいるでないぞ。
慌てて顔を上げても、社があるだけ。
幻聴じゃない。神様はやっぱり、いてくれたんだ。
「……はい。神様」
目元を拭って、ようやく笑顔を向けられた。
お題:神様へ
「うそ、晴れた……」
目蓋の裏から眩しさを感じてゆっくり身体を起こした。
思わず洩れた呟きとともに、窓を開ける。
曇りか小雨が降るかも、との天気予報は完全に外れたらしい。ヴェールのような雲がところどころの青空に敷かれているものの、気持ちのいい天気だった。キャミソールを身につけただけの格好でも寒くない。
「ねえ、起きて。晴れたよ、出掛けよう?」
隣で布団にくるまっている彼はわずかに唸り声をあげただけで、ぴくりとも動かない。こっちだって疲れているのに、などとつい考えてしまう。
「んー……はれ……?」
諦めず揺さぶっていると、絶対理解していない返事が来た。
「そう、晴れ。すごくいい天気だから出掛けようよ。昨日は家でごろごろしようって言ったけど、ほんとは出掛けたかったんだもん」
先週も先々週も天気のせいで引きこもらざるを得なかった。室内も悪くはないけれど、ずっとは飽きる。
買い物もいいし、春の花たちを堪能もしたい。昨日会社帰りに見た桜はそこそこ咲いていたし、まだ間に合うはず。
「っちょ、んっ!?」
いきなり寝ぼけているとは思えないほどの力で引っ張られ、唇を塞がれた。図らずも彼の剥き出しの胸元にダイブするような格好になってしまう。
「な、なによいきなり」
「寝てるが吉だ」
寝起きのガラガラ声で、外出拒否の言葉をかけられる。
「ええー! 出掛けたいよ~」
「明日だ明日。明日も晴れだったろ」
「そうだけど、二日連続でもいいじゃない」
「お前が今すごく色っぽいから誰にも見せたくない」
さらっとなにを言うのかこの寝惚け男は。素直に出かけたくないと言えばいいのに。
「今バカなこと言ってんなって思っただろ」
背中を緩く撫でながら、睨むように見つめてくる。微妙にくすぐったい。
「そうに決まってるでしょ」
「いいや、色っぽいさ」
首元を軽く舐められた。
「お前、ハイネックの服、今ないって言ってたよな?」
「え? うん。結構寒い日が続いたでしょ? 洗濯しないとないのよね」
「ストールだっけ? 巻くやつもないんだったよな」
「う、うん。うっとうしいから……ってなんなの?」
「つまり、首を隠すものがないってわけだ」
謎かけのような物言いに数秒頭を悩ませ、短い悲鳴が漏れた。
「ちょ、ちょっと! まさか首に!」
「ご名答」
着るものが限られるからあまりしてほしくないのに、油断してた!
「い、今から洗濯しなきゃ!」
文句を言いたいところだが防御用の服の確保が先だ。慌てて起き上がると「ぐえっ」という醜い悲鳴が聞こえてちょっとすっきりした。
「明日は私の行きたいとこに付き合ってもらうからね! 罰よ!」
「へいへい」
「所有の証」を残してもらうこと自体は嫌いじゃないのだが、このぶんだとまだまだ黙っていた方がよさそうだ。
お題:快晴
「すごい、桜がいっぱい咲いてる! ほんとにこんなに咲くんだね!」
囲むように咲き誇っている桜たちの下で、満面の笑顔を浮かべた彼女がダンスを踊るようにくるくる回っている。癖のある長髪がふわりふわりと揺れて、まるでヴェールのようだ。
「病室から見ていたのとは違うだろ?」
「うん。生で見るともっときれいで可愛い! ダメなのはわかってるけど、一枝持ち帰って飾りたくなっちゃうね」
動きを止めた彼女は、桜に向かって思いきり両腕を伸ばす。花びらのシャワーを浴びるさまは無邪気で可愛いのにどこか儚く、少し不安にさせる。
きっと、長い年月を病院で過ごしていた背景があるからだろう。治るかわからない病とずっと戦い続けて、奇跡的に回復への道が見つかった。
まだ完治したわけじゃないし、定期的に病院へ通わないといけない。いつ再入院となるかもわからない。
それでもこうして、不自由なく外を歩けるまでになれたのはとても大きいこと。
「ねえ、他にもこうやっていっぱい咲いてるところ、あるの?」
「そうだな……次の休みの日まで満開のままかどうかはわからないけど、あるなら行ってみる?」
すると、彼女はわずかに目を見開いたあと、一番近い桜の木に歩み寄り、触れた。後を追って顔を覗き込むと悲痛な色が見え隠れしている。
「そうだよね。今はこんなに元気よく咲いていても、数日したら全部散ってしまうのよね」
もしかしたら自分と重ねているのかもしれない。
今は元気でも、一ヶ月後、いや一週間後には体調を崩してしまったら。これはつかの間の夢で、結局は白いベッドの上から逃れられない運命だったとしたら。
「次の休みもまた行こう。来年も、再来年も、また行こう。いろんな場所を見に行こう」
木に触れていた彼女の白い手を取って誓う。
お互い明るい方向を向いていられるよう、少なくとも自分は進む道を照らし続けていられる存在でありたい。
「うん。楽しみにしてるね」
ようやく満開になったこの花を、無残に枯らせやしない。
お題:春爛漫
誰よりもずっとあなたを愛しているよ。
他の誰もかなわないと思うんだ。
一番近くにいるから、なんでもすぐに気づけるし、悩みがあったら誰よりも適切なアドバイスをしてあげられる。
いつどんなときでもあなたを見守っているんだから、当たり前でしょう?
ねえ、だからこっちを向いてよ。
絶対、今のあなたみたいな泣き顔なんてさせない。いつだって笑っていられるよう、どんなものからもあなたを守れるから。
だから、そんなろくでなしは捨ててしまえ。
そして今すぐこの想いを受け入れて。
ふたりで明るい未来を進んでいこう?
お題:誰よりも、ずっと
※BL表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
彼の瞳を見つめると、水滴が一粒落ちた水面のように揺れたあと、すぐに目線を外してしまう。頬の赤さが、理由だ。
「恋人になっても、恥ずかしがり屋なのは変わらないねぇ」
「人に見つめられるのはそもそも苦手なんですって」
「恋人相手だと特に、ね?」
唇をとがらせてしまった。そういうところがたまらなく可愛いのだが、指摘したら意地でも直そうとするから言わないでおこう。
と、珍しく彼がまっすぐ見上げてきた。眉間がぷるぷるしているさまに吹き出しそうになりつつも、見守ることにする。
ああ、やっぱり彼の瞳には不純物が全くない。いくら観察されても不快にならないどころか、心の奥があたたかくなる。
「……あなたは全然平気ですよね。今のはわざとらしすぎましたけど、いつも全然余裕だし、考えてることも読めないし」
「そんなことないよ? 俺だって恋人に見つめられたら恥ずかしい! ってなるさ。顔に出してないだけで」
彼は納得のいかない表情をしていた。嘘のつけない性格だから、とても自分の言葉が信じられないのだろう。
人間の裏の感情だけでつくられたような場所で生きてきた自分に、彼の存在はとてもまぶしくて、まぶしすぎて、痛く感じることもある。
だからこそ大切で仕方なくて、できれば閉じ込めておきたい。
――もちろん、そんなことをしたら彼らしさが死んでしまうから、なんとか実行には移さないでいられるけれど。
頬を包み込んで、改めて正面から見つめる。ああ、口元がだらしなく緩んでいるかもしれない。彼と付き合うようになって自分もだいぶ変わった。
彼が小さく「ずるい」とつぶやいたのを見逃しはしなかった。
「ずるいってどういうこと?」
「そういう表情が、です」
「俺、そんなに変な顔してた?」
「おれでもわかるくらい……おれが、好きだって顔」
「それは仕方ないよ。だって本当に君がとても大好きで、愛しいんだもの」
呆れた台詞が、互いの唇の奥に消える。
再びの彼の視線からは、羞恥にまみれながらも確かな愛が伝わってきていた。
お題:君の目を見つめると