「はあ?」
我ながら素っ頓狂な声が出た。
無理もないだろう。突然道端で女に話しかけられたと思ったら、「アナタ、私の彼氏でしょ」とか言うんだから。
「違いますけど」
俺はきっぱりと言った。この女、顔は美人だが、あまり関わってはいけないタイプなのは間違いない。
「あれー?違ったかぁ。ちょータイプだと思ったんだけどなぁ」
女はくるくると髪を弄びながら言った。
「新手のナンパですか?」
「私記憶喪失なのよ」
何気ない質問に予想外の答えが返ってきて俺は狼狽した。やはり、コイツはちょっとオカシイ人なのか…?
「あーッ!いたいた!いましたよッ!」
俺がどうやってこの場を切り抜けるか考えていると、前方から白衣の女性が数人走ってきた。
「捕まえたーッ!」
「んぎゃッ」
白衣の女性たち——その正体は看護婦だった——は女の体をガッチリと捕まえて言った。
「んもー!ナイトウさん!病院から出るのは退院した後にしてくださいッ!」
「ふぁーい」と口をとがらせて、女は看護婦たちにず引きずられるようにして去っていく。
「あッそうだ!」女は唐突に何かを思い出したように私に向かって叫んだ。
「私、じつは彼氏とかいたことないっぽいのよね!友だちも少なかったみたい。でも今は昔のことなーんにも覚えてないから、この機会に彼氏くらいつくっとこうと思ってえーッ!」
ずるずると引きずられながら必死に叫ぶ彼女を眺めながら、俺は考えた。
やっぱりオカシイ女だ。あんなヤツのことを気にする義理は俺にはない。もう金輪際あんなのに会うことはないと思う。思うのだが…。
「ゼロからのスタート、か」
記憶喪失にしてとことん前向きな行動をとる彼女に、なんとなく羨ましいような、尊敬の念のようなものが生まれて…。
いや、こない、か。
俺はくるりと踵を返し、そのまま元来た道をふたたび歩き始めた。
【0からの】
「同情なぞ要らぬッ!」
道経はそう怒鳴り散らして稽古場から飛び出した。
地団駄を踏みながら渡り廊下を去ってゆく。
「道経さまに何を申されたのですか。」
木刀の手入れをしながら幸仁が問いかけた。
「べつに何も…。親父が死んでたいへんだろうから私の屋敷に来れば良いと申しただけだ」
不思議そうな顔をしてそう答えるのは直秀。幸仁の主人であり道経の稽古仲間である。
「何がそんなに気に食わんのか…。」
「直秀さまとは対等なご関係でいらっしゃりたいのでしょう。そのお気持ちは分かります」
幸仁はそう言って微笑んだが、直秀にはその気持ちがさっぱり分からぬ。
時に助け、時に助けられるのが人間というものであろうに…。
* * * * * * * * * * * *
「おい。これで機嫌を直せ。」
縁側で一人黄昏ていた道経に直秀が菓子を投げ渡す。
「それともこれも同情と云って受け取らぬか。」
「ふん。」
道経は菓子を受け取ると大口を開けて放り込んだ。
「不味い菓子だ。」
「助け合うのが人間の関係と云うものだ。」
直秀は道経の横に腰掛け、従者が蝋に火を灯すのを「すぐ帰るゆえ」と止めさせて云った。
「私の屋敷に来るのが良かろう。」
「同情は要らぬ。」
「同情が悪いか。」
「悪い。お前とおれは対等ゆえに、同情は要らぬ。」
幸仁とおなじことを云う… と直秀は思った。
「おれはお前の助けになってやりたいのだ。」
道経はゆっくりと直秀を見た。
そして直秀の真っ直ぐな眼差しをとらえ、諦めたようにふっと笑った。
「ならば、まいにち稽古終わりに先の菓子をくれ。それで十分だ。」
「不味い菓子で良いのか。」
「良い。」
「わかった。」
直秀は力強く頷いてその場を後にした。
「あやつの生真面目さには敵わんな…。」
そう云って道経はまた少し笑った。
【同情】
なにコレ。
俺のベッドに…枯葉が山盛り。
「はっぱのおふとん。」
コノミは立ち尽くす俺の隣を鷹揚と横切って言った。
「つくったよ。」
ばさっ と音を立ててコノミが枯葉に倒れ込む。
いや、つくったよ、じゃあなくてだな…。
「ふかふかー。」
コノミは満足げに目を閉じている。
俺は立ち尽くしたまま考えを巡らせていた。
どこからその枯葉を持った来たのかとか
虫がついてるんじゃないの?とか
そもそもなんでベッドに枯葉をばら撒いてるのかとか
誰が後始末をすると思ってるんだとか。
考えに考えた結果…。
「…がんばったな。」
そう言って俺は枯葉のベッドに身を投げだした。
【枯葉】
ちいさな温泉旅館の一室で、わたしはきょう撮った写真を眺めていた。
早咲きの桜を見て、河原を散歩した。
途中の屋台で団子を食べた。
外国人の観光客に頼まれて写真を撮ってあげた。
「たのしかったな…」
誰にともなくつぶやいて、わたしは布団に倒れ込む。
旅館ならではの羽毛布団のつめたさが体につたう。
「きょう」はここに詰まっている。
スマホのカメラアプリの中にぜんぶある。
わたしはごろんと仰向けになって、もう一度写真の中のきょうを見た。
…でもわたしはもう、きょうの桜の匂いを嗅げない。川のせせらぎも聞こえなければ、同じ焼き加減の団子も食べられない…。
きょうを簡単に手元に残せるこの時代だからこそ、「きょう」の特別さが分かった気がした。
【今日にさよなら】
アタシきょうは眠れないわ。
だってお気に入りのブランケットがないんだもの。
ママにきいたら「お洗濯中なのよ」だって。
洗濯なんて必要ないわ。
だってぜんぜん汚くないもの…。
アタシ泣いて暴れたわ。あのブランケットがないと眠れないわって部屋中駆け回ったの。ママは困った顔で笑っていたから、アタシ、もっとムキになって…。
* * * * * * * * * * * *
そうして気がついたら朝だったの。
のどがいがいがして、おめめがかさかさ。
泣きつかれて寝ちゃったのね。
リビングにおりて行ったら、アタシの椅子にブランケットがかかってた。
ママったら、「昨日はごめんね」だって。
「アタシもごめん」って、言えなかったわ。
【お気に入り】