【病室】
乙一の著書に、『失はれる物語』という短編小説がある。
初めてこの物語を読んだとき、夜雨はいたく感動して、こっそり泣いて、読み返して、そして、分かち合うべく春歌に勧めた。
短編小説なので夜雨が数十分で読み終えたそれを、春歌は貸してから三日後の土曜日の夕方、赤い目と不機嫌な表情を隠しもせずに返しに来た。
聞くに、春歌はこの物語の家族の方に感情移入したらしい。読み終えた後こそ盛大に泣いていたが、落ち着くにつれ、ふつふつと怒りがわいてきたそうだ。
主人公は勝手だ、これで家族は幸せなのか、確かに辛く苦しいだろうけど、その中に少しも幸せがないなんて誰も言ってないのに。鼻をぐずぐずいわせながら憤る春歌は、次にそれを夜雨にも向けた。
夜雨が物語の主人公に共感し、もしも同じ境遇に置かれたとしたら同じ行動を取るだろうことは、春歌にはお見通しだったのだ。
現実に起きていることでもないのに夜雨を想い怒る春歌に、ごめんと小さく謝る。
この思い出だけでもう充分、暗闇の病室に溶けていけそうだった。
【明日、もし晴れたら】
「もう永遠に、春歌とは会わない」
喜びも怒りも、哀しみも楽しさも、何の感情も読み取れない表情でそう切り出した夜雨に、困った人だなぁと内心、春歌はため息をついた。
びゅおう、風ががなり立てる音が、窓を挟んだ室内にまで聞こえ始めている。
情報収集に点けていたテレビのニュースでは、男性アナウンサーが真面目な顔で繰り返している。曰く、大型で非常に強い台風……号は、依然として勢力を保ちながら北上中です。明日未明、……上陸の可能性が高く……引き続き最新の台風情報にご注意ください。
決まってこんな日に夜雨は、こんなことを言いだすことがある。
明日、もし晴れたら。
可能性の限りなく低い賭けは、もう何度目になるだろう。面倒くさい人だ。
天気予報は当然のように雨マークで、でも、確率はゼロではない。
台風の勢力が弱まれば。進路が逸れれば。もしも、もしも、もしも。
もし明日晴れてしまったなら、本当に二度と春歌に会おうとしないだろう夜雨を、春歌はよく知っている。
けれど、毎回必死になって晴れるなと祈る春歌を、きっと夜雨は知らないだろう。言われるたびに小さく傷ついている心の奥のことも。
ひどい人だ。いつか思い知らせてやりたい。
風がまた一段と強くなった。
離れたいのか、離れたくないのか。
傷つけたいのか、傷つきたいのか。
明日、目覚めて降りしきる雨を確認するその瞬間まで、夜雨の心も、台風のようにすべてかき混ぜて吹き荒れるのだろうか。
吹き荒れて、いればいい。
困った人、面倒くさい人、ひどい人。
そして──春歌は微笑う。
可愛い人だ。
【だから、一人でいたい。】
一人でいることが好きだ。
余計な気を遣わなくていいし、あれこれやり取りするのに必要なエネルギーも使わない。要するに楽なのだ。
楽できる方、便利な方へと社会を発展させてきた現代人が、楽だからと一人を選択することを誰が非難できるだろうか、いやできない。夜雨は思う。思うが、それでも現実は一人でいることが許されにくかったりもする。
そもそも一人の時間が大好きなのだが、本当に独りにはなりきれないのだから、難儀だなぁと自分でも思う。
あんまりにも長く一人でいると、なんだか鳩尾の辺りが重くなってしまう。一人言に、一人言じゃなくなる反応が欲しくなってしまう。それで誰かと関わると、またひどく疲れてしまうとわかりきっているのに。
それもこれも全部、春歌のせいだ、夜雨はまるっと責任を押しつける。
春歌という存在のせいで、それが傍にないとき、自分は今一人なのだと気づいてしまう。
一人きりの空間に、何かが足りないような、本当は何かが在ったような、そんな気がしてしまうのだ。
知らなければきっと、ずっと知らないままでいられた。
だから、一人でいたかった、のに。
寂しさなんて、与えないで欲しかった。
【澄んだ瞳】
未来の話をしよう!
そう提案したその時、春歌の頭の中は確かに、希望と期待に満ち溢れていた。
高校卒業したら進路どうする?
ヨウは頭いいから、イイトコの大学も狙えそうだよね。わたしは成績よくないし、そしたら別々になっちゃうね。小学校も中学校も高校も、ずっと一緒なのにね。……もっと勉強しとけばよかったかなぁ。でもわたし、勉強嫌いだしな。
違う学校行ったとしても、会わなくなるわけじゃないもんね。
仕事はさ、どんなのしたい?
わたしは、人といっぱい接するヤツがいいなー。ショップのスタッフとか。テーマパークのキャストとかもおもしろそう。
ヨウは逆に、あんまり人と話したりするの好きじゃないもんね。凝り性だし、なんか専門的なの似合いそう。専門的が何かって言われたらわかんないけど。
住むトコも重要だよね! 駅が近い方が便利とか、ちょっと郊外ぐらいが静かで広い! とか。
わたしはね、一軒家よりマンション派だよ。何年かに一回引っ越して、ガラッと環境変えたり。でもヨウは環境変わると体調くずしちゃうから、おんなじトコでもいいよ。
こどもはね、いっぱいいたら楽しいよね! でも、大変な生活させたくはないから、ムリのない範囲の大家族が理想かな。
たくさんたくさん語った春歌に、夜雨はただ黙って聞いて、時々頷いた。それだけだった。
だから春歌は訊いた。
ヨウは?
春歌はなんの恐れもなくただただ夜雨の未来を聞きたかった。そこに自分が存在することはとても自然なことだったので。
当然と思うことすらなく、春歌の未来に夜雨が存在するように、特別でもなんでもないことだった。
夜雨は腕を組み、首を傾げて少し考えた。
「この歳で将来のこと決めるのって難しいよな……。その辺はまぁ、おれは追い追い。とりあえず目標は、他人様に迷惑かけることなく生きて、他人様に迷惑かけることなく死ねれば、それで十分だわ」
未来の話をしよう!
そう提案したその時、春歌の頭の中は確かに、希望と期待に満ち溢れていた。
春歌は良い人生送るよ。目に見える。
そう優しい顔で、柔らかな声では言えるくせに、そこに自分を置けないひとの目を見るまでは。
普段は伏せがちに光の少ない目をしているくせに、こんなときばっかり真っ直ぐ、澄んだ瞳をする。
【嵐が来ようとも】
「散らない花に、なりたかった」
そうぼそりと呟いた夜雨は、けれど一拍置いた後、きゅっと結んだ唇をもごもごと動かして、照れた表情を隠した。
「なんでカッコつけたの、今?」
「や、なんかちょっと言ってみたかった……触れてくれるな、恥ずかしい……」
本当にそうなのだろう、夜雨の黒髪から覗く耳たぶは、ほんのりと紅く色づいている。
「ゴメンだけど、元ネタわかんないよ」
「ああー恥ずかしさの上乗せしてくるじゃん……。元ネタっつーか、『花に嵐』っていうたとえがあってだなーって、やめろやめろ説明させるんじゃない、いたたまれない」
今度は嫌そうな顔をしながらも、それでも言葉を教えてくれる夜雨に、春歌は笑った。笑って、今が盛りと咲き誇りたかった。
ここに嵐は来ないので。