夜雨と春歌

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8/18/2023, 6:23:18 PM

【鏡】



 四時四十四分、別館の一階と二階の踊り場にある大きな鏡を覗き込むと、映った自分が動き出し、鏡の向こうの世界に連れて行かれる──。
 夜雨と春歌が通っていた小学校では、そんな七不思議のひとつがまことしやかに囁かれていた。

 あの日の夜雨は、放課後の図書室で本を読んでいた。熱中して、ふと顔を上げて見た時計の針は四時半を少し過ぎたところ、冗談みたいに図書室が、窓の外までもが夕日で真っ赤に染まっていた。元々の色が判らないくらい何もかもに赤が重なって、空気すら紅く色づいていた。
 それで小学生の夜雨は、鏡を覗きに行こうと思い立った。
 旅立つにはおあつらえ向きな気がした。鏡の向こうの世界でもどこにでも、ここじゃなければどこでも良かった。
 図書室は本館の二階にあったので、渡り廊下を通って別館へ。階段を見下ろし、これを下りて四時四十四分に鏡を覗き込めば──ごくりと唾を飲んだところで。

「ヨウ」

 背後から呼びかけられて、ビクリと肩を震わせた。
「春歌。まだ残ってたのか」
 振り返れば、とっくに帰ったと思っていた春歌が紅を纏いながら立っていた。紅いし薄暗いしで顔がよく見えなくて、本当に本物の春歌かな、なんて考えが頭をよぎった。
「一緒に行くよ」
 何が、何を。何も話していないのに、何故か通じあっていた。春歌は夜雨が鏡の向こうに行こうとしていることを知っていたし、夜雨は春歌が少しの躊躇もなく付いてこようとしていると解っていた。
 こくりと頷いて手を差し出せば、春歌がそれを握った。
 そうしてふたりで、ゆっくりゆっくり、一段一段階段を下りた。


 結論を言ってしまえば、鏡の向こうの世界には行けなかった。
 ただの眉唾だったのかもしれないし、何しろ時計を持っていなかったので、単に四時四十四分とズレてしまっただけなのかもしれない。
 夜雨と春歌はしばらく鏡を覗き込んで、手足を動かして鏡の向こうの自分が同じ動きしかしないのを確認すると、顔を見合わせて帰路についた。繋いだ手はそのままに、無言で歩いたことをよく覚えている。
 あれきり夜雨は、踊り場の鏡を覗き込んだことはない。
 異世界に行かずとも、世界は少しだけ変わったことに気づいていた。
 あの日の四時四十四分を境に今は、ふたりで世界を捨てられることを知った世界に生きている。

8/18/2023, 8:44:56 AM

【いつまでも捨てられないもの】



 夜雨の部屋の片隅に、一抱えほどの大きさの箱がある。
 再利用の段ボールとかじゃなくて、蓋のついたしっかりとした作りの箱だ。何か書かれたりしているわけではないから、中身は見当もつかない。
 春歌は一度、何が入っているのかと訊いたことがある。返ってきたのは、少し悩むように間を置いてからの、「……ゴミ」の一言だった。
「ゴミなのに捨てないの?」
「あー……」
「あ、ごめん。捨てられないから置いてあるんだよね」
 いや全然捨てていいんだけど、捨て方がよくわかんないっつーか、そもそも何ゴミかもよくわかんないし……。夜雨はぼそぼそと言い訳のように続ける。
 春歌はそっと箱を一撫でした。
 綺麗な箱に入った、少しの埃も被っていないゴミと名付けられたそれが、いつか別の名前になる日がくるといいな、と思う。

8/16/2023, 7:17:53 PM

【誇らしさ】



 自信とかいうやつは、昔は持っていた覚えがあるけれど、ボコボコに打ちのめされて今や見る影もない。
 価値など、とうの昔に暴落した。
 そのくせ何の根拠もないプライドだけは高くて、自分以外の人間は全員頭が悪いと思っているくせに、その人達より優れた部分なんて自分の中にひとつもなくて、心と名前のついているだろう場所が馬鹿みたいに重くなってそのままどこまでも沈んでいきそうになる。
 世界に小さく小さくなった自分の塵ひとつ残さず消滅してしまいたいけれど、生きてきて何ひとつ遺せない自分が虚しくて哀しい。
 夜雨は、自分のことはよくわかっている。どれだけつまらない人間であるのか、日々実感しながら過ごしている。

 それなのに。
 春歌は夜雨を見つけた途端、咲くように笑って駆け寄って来たりするから。
 その瞬間だけは、自分がとてつもなく素晴らしい人間だった気がして、誇らしさすら感じてしまって。
 苦しい。

8/15/2023, 4:26:25 PM

【夜の海】



 『呼ばれる』とか『誘われる』とか、『境界線が曖昧になる』とか、そういうオカルティックな噂は聞いたことあるよな。嘘か本当か知らないけど。

 そんな話を夜雨に聞いたその日から、春歌にとって、夜の海はいつか必ずこの目で見てみたいものになっている。
 その話を聞いてなお、その話を聞いたからこそ。
 夜雨のまっくろなひとみは、そのまま嵌め込んだようにそっくりなんだろうなぁと、思うからだ。

8/14/2023, 10:52:27 PM

【自転車に乗って】



「逆だと思うんだよなぁ……」
 背中側、荷台に腰かけた夜雨からぼやきが聞こえる。
「でも、ヨウよりわたしの方が体力あるよ」
「それはそうだけども」
 放課後、制服姿、自転車のふたり乗り。何十年も前から代々の少年少女が憧れた青春の一頁だ。
「イマドキそういうこと言わないらしいよ」
 ぐっと、ハンドルを握る手に力を込める。
 本当は、『今時』だとか『古臭い』だとか、そもそも『男は』『女は』『ジェンダーレス』とか、春歌は普段はあまり意識しない。今はただ、後ろに夜雨を乗せて走る理由になればそれでよかった。
「それより、おまわりさんに見つからないこと考えた方がいいよ」
「それは本当にそう」

 このままふたり、どこまでもペダルを漕ぎ続けて、大丈夫だと証明してみせたかった。
 いつでも君をどこか遠くまで連れて行くことができるのだということを。

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