【鏡】
四時四十四分、別館の一階と二階の踊り場にある大きな鏡を覗き込むと、映った自分が動き出し、鏡の向こうの世界に連れて行かれる──。
夜雨と春歌が通っていた小学校では、そんな七不思議のひとつがまことしやかに囁かれていた。
あの日の夜雨は、放課後の図書室で本を読んでいた。熱中して、ふと顔を上げて見た時計の針は四時半を少し過ぎたところ、冗談みたいに図書室が、窓の外までもが夕日で真っ赤に染まっていた。元々の色が判らないくらい何もかもに赤が重なって、空気すら紅く色づいていた。
それで小学生の夜雨は、鏡を覗きに行こうと思い立った。
旅立つにはおあつらえ向きな気がした。鏡の向こうの世界でもどこにでも、ここじゃなければどこでも良かった。
図書室は本館の二階にあったので、渡り廊下を通って別館へ。階段を見下ろし、これを下りて四時四十四分に鏡を覗き込めば──ごくりと唾を飲んだところで。
「ヨウ」
背後から呼びかけられて、ビクリと肩を震わせた。
「春歌。まだ残ってたのか」
振り返れば、とっくに帰ったと思っていた春歌が紅を纏いながら立っていた。紅いし薄暗いしで顔がよく見えなくて、本当に本物の春歌かな、なんて考えが頭をよぎった。
「一緒に行くよ」
何が、何を。何も話していないのに、何故か通じあっていた。春歌は夜雨が鏡の向こうに行こうとしていることを知っていたし、夜雨は春歌が少しの躊躇もなく付いてこようとしていると解っていた。
こくりと頷いて手を差し出せば、春歌がそれを握った。
そうしてふたりで、ゆっくりゆっくり、一段一段階段を下りた。
結論を言ってしまえば、鏡の向こうの世界には行けなかった。
ただの眉唾だったのかもしれないし、何しろ時計を持っていなかったので、単に四時四十四分とズレてしまっただけなのかもしれない。
夜雨と春歌はしばらく鏡を覗き込んで、手足を動かして鏡の向こうの自分が同じ動きしかしないのを確認すると、顔を見合わせて帰路についた。繋いだ手はそのままに、無言で歩いたことをよく覚えている。
あれきり夜雨は、踊り場の鏡を覗き込んだことはない。
異世界に行かずとも、世界は少しだけ変わったことに気づいていた。
あの日の四時四十四分を境に今は、ふたりで世界を捨てられることを知った世界に生きている。
8/18/2023, 6:23:18 PM