【病室】
乙一の著書に、『失はれる物語』という短編小説がある。
初めてこの物語を読んだとき、夜雨はいたく感動して、こっそり泣いて、読み返して、そして、分かち合うべく春歌に勧めた。
短編小説なので夜雨が数十分で読み終えたそれを、春歌は貸してから三日後の土曜日の夕方、赤い目と不機嫌な表情を隠しもせずに返しに来た。
聞くに、春歌はこの物語の家族の方に感情移入したらしい。読み終えた後こそ盛大に泣いていたが、落ち着くにつれ、ふつふつと怒りがわいてきたそうだ。
主人公は勝手だ、これで家族は幸せなのか、確かに辛く苦しいだろうけど、その中に少しも幸せがないなんて誰も言ってないのに。鼻をぐずぐずいわせながら憤る春歌は、次にそれを夜雨にも向けた。
夜雨が物語の主人公に共感し、もしも同じ境遇に置かれたとしたら同じ行動を取るだろうことは、春歌にはお見通しだったのだ。
現実に起きていることでもないのに夜雨を想い怒る春歌に、ごめんと小さく謝る。
この思い出だけでもう充分、暗闇の病室に溶けていけそうだった。
8/2/2023, 6:33:10 PM