永遠に
私は永続的に続くものを考えるとゾッとする。
永続的が指し示すものが、私の人生を超越するものであればそれはどうでもいいことだが、自分が死ぬまでの期限付きで関連するものには、責任と不安がセットでついて回る気がして、考えるだけで嫌な気持ちになる。
それが、結婚や子育て、人間関係、仕事など、私が意識を持ち生きている中での永遠を感じる物事は基本的に嫌いである。その重圧を感じるとゾッとする。また、矛盾しているが、それらが永遠でなかった場合、傷つくのも嫌なのである。細かくいば永遠が嫌なのではなく、それらが永遠でなくなってしまう不安要素を自分で抱えるのが嫌なのである。また、その不安を抱えて生きていく勇気もない。
だから私のような人間が生きていくためには、つべこべ言わず目の前のタスクだけ見てこなしていくことが精神安定上良い。今の所結婚も出産もしたいと思ったことは一度もない。いつでも心置きなく切れる関係性というものでないと、その不安に耐えきれない。
そんな私とは真逆の姉が、数年前に結婚した。
程なくして、甥っ子が産まれた。
末っ子として産まれた私は、赤子を見る機会がなく、まだその成長過程を体験したこともなかった。
今年2歳になった甥っ子は、生まれたてよりも顔がはっきりとしていた。姉にも似ていたが、どこか私の母にも似ていて驚いた。
先祖代々、命の継承、なんて聞くと、今まではとくになんの感情もなかったが、目の前の小さな命がありありと遺伝子を引き継いでいる姿を見ると、ダイレクトにその言葉の価値を感じずにはいられなかった。
代々命を引き継いできた私の先祖たちがどんな性格でどんな顔をしていたか知らないが、思ってた以上に「命のバトン」なるものは存在するのではないかと思った。これは、自分のことなど超越した、永遠そのものだと思った。
そんなことを考えていたら、私の人生なんてなんとちっぽけで、短いんだろう。長い長い引き継がれたバトンの一つならば、自分の命の価値を感じる。今まで引き継がれた分、これから引き継いでいく分。
甥っ子と繋いだ手は、とても小さかった。小さな手からしっかりと体温が伝わった。私はその感覚を覚えながら、帰り道に空を見上げた。燃えるような赤い空を見上げながら、自分のバトンを心で握りしめた。
24.11.02 創作-永遠に
理想郷
10月の新潟駅。
夜行バスで、到着した早朝は寒かった。
朝早くから経営している地元の岩盤浴に行き、シャワーを浴びた。
彼の実家に挨拶に行くまでに、
あなたが見せてくれたあなたの地元について知れるのがとても嬉しかった。
あなたの高校と、あなたが通った登校路、平日の昼間で誰も居ない河川敷。
川がとても広く、穏やかで、晴れた陽射しが心地よく、いつまでもそこに居たいと思った。
縁結びで有名な神社へ行き、ベタな、ハート型の絵馬に願い事を書いた。
そこから数ヶ月してあなたと別れることになったけど、
あの日わたしが過ごした一日は、夢のような場所だった。
日本には47都道府県、色んな場所があるけれど
あの時のあなたと私で行った、あなたの地元に私はいまだに恋焦がれている。思い出の中で、二度と出会えぬ理想郷。
24.10.31 エッセイ-理想郷
懐かしく思うこと 途中
地元の大型商業施設は、僻地にあるもので残り一つとなった。
人口15万人前後のこの街にある店々は、
高校卒業後、10年足らずで次々と潰れていった。
特に駅前の大型商業施設が潰れたことはかなり衝撃的だった。あまり地元の人間と交流していないので、その衝撃が地域全体のものかは知らないが、わたしの世代はそれなりに驚き悲しんだことと思う。
地元若者といえば、遊び場といえば、潰れた駅前のそこか、ラブホテルくらいだったと思う。というか、当時はその二つくらいしか聞いた覚えがない。
つまり、地元に帰り懐かしさを巡る場所はあの無駄にデカいラブホだけか…と思うと酷く過疎化した地域問題について意識せざるおえなくなってきた。なんとも悲しい現実である。
かといって、私は懐かしむような思い出がそもそもこの土地になく、早く地域として潰れればいいのになと思っていた。その怨念は物心つく時から始まり、現在ようやく縮小しかけている。この土地で生まれ育ったくせになぜそんなことを思ったのだろうかと振り返ると、やはり遠方から嫁いできた母の愚痴から、私はその罪悪感をこの地元に押し付けていたのだなと感じた。
もう一つの物語
もし、母の病気がなかったら、
私は今頃どうなっていたのだろう。
中学生として、当たり前のように授業を受け、塾にかよい、部活をして家に帰る。滞りなく友人と遊び、恋をする。そう歩んできた、兄のように。
4人兄妹の中で、わたしは末っ子に生まれた。
私だけ何も経験せずに大人になったのは、タイミング、というものだった。私が中学を卒業して働きに出たことを、大学を卒業した上の兄たちは憐んでいた。
わたしの母は、穏やかであったが、
とある病気により時に暴力的であった。
それは、母の作り出す妄想が、母の心を蝕み、怯えさせ、恐れからくる暴力であった。
人は自分を守るために、時に他人を傷つける。
誰も悪くない、だって、病気だもの。
お医者様が診断したんだもの。
母は母なりに戦っているもの。
偶然、私の学生時代に症状が酷くなったんだもの。
あれが、あの時できた最善だったんだもの。
たまたま、そういうことで、
私は家族に全てを捧げた人生だった。
もし、あの時母が病を発症しなければ。
もし、私の器量が良ければ。
もし、もっと早く周りを頼っていれば。
今とは違う人生だったのだろうか。
今とは違う毎日だったのだろうか。
高校へ行き、授業をうけ、今日みたテレビの話をして、恋をし、部活をして、塾に行く。
制服を着て、髪を整え、化粧に興味を持ち始める。
ステレオタイプとして、邪道を嫌う。
変わったものを毛嫌いし、避けることで、
ストレートに生きる。
でもそうなった私は、「私」なんだろうか。
2024.10.29 創作-もう一つの物語
暗がりの中で
私は「傷ついた分だけ優しくなれるよ」という言葉を聞くと、複雑な気持ちになる。というか、私はあんまり好きじゃない。 なぜなら、私にとって「傷つく」というのは優しさに繋がるものではなく、ただただ深く、終わりなく傷が増えるようなものだったからだ。
同じような苦しみを持つ人を見れば、心の奥に劣等感が反応して、「自分の方が不幸だ」と張り合おうとしてしまう。そして自分とは違う境遇の人を見れば、その人の不幸を見下し、自分を保とうとする。自分の心が荒れ果てた乾いた土地なのに、一滴の水すら吸収できない、そんな枯渇した状態なのが分かる。たとえ一粒の涙がこぼれたところで、乾いた心には届かないのだ。
私の中には余裕もなかった。もし空腹のときに目の前に食べ物があれば、きっと他人に分ける余裕もなく奪ってしまうだろう。そして、残るのは罪悪感だけだった。くだらない虚栄心や嘘、陰口といった些細な行動が、じりじりと自分の心を蝕んでいく。転がる石は止まり方がわからない。私は「傷ついた分だけ優しくなれる」どころか、「もっと傷ついてきたのに!」と周囲に主張して、また他人を傷つけてしまうのだ。
これを言葉にして表現すると、なんだか幼いように感じられて、自己嫌悪や恥ずかしさが湧いてくる。それでも、正直なところ、これが私の中にある感情そのものだ。
それでも、「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉に、どこかで惹かれてしまう。たとえ自分にとっては難しく感じられても、信じていたい気持ちがあるのだ。
私の人生の暗がりといえば、職を失い、病気になり、頼りにしていた人に別れを告げられた時期だった。お金も底をつき、未来が真っ暗に見えていた。何もかもが空虚で、不安すら感じられないほどだった。誰にも何も言わず、ただ死ぬタイミングを考えていた。そんなとき、友人がそばにいてくれた。
その友人は、私よりも多くの死別を経験し、早くに自立していた。彼女自身も望まぬ不条理を背負っていたけれど、それでもそこから滲み出る魅力があった。同年代には持てない深みと余裕が彼女にはあったのだ。そして、彼女が私に「生きていればそれでいいよ」と言ってくれた言葉が、私の心に深く届いた。まるで心臓が身体の奥底に落ちるような感覚だった。
友人は、ただ私の存在を受け入れてくれていた。彼女の傷が、彼女の言葉と佇まいのすべてに滲み出ていた。私はただその存在に感謝しても仕切れなかった。そして、友人が乗り越えてきた痛みが、確かに私を癒してくれた。あの日、私はその友人や同じように痛みを抱えた人に、心から優しくしたいと思った。自分の未熟さを痛感して泣いた。
人生の暗がりの中で、誰もが傷つく。傷つかないほうが良いし、苦労しないならそのほうが良いに決まっている。けれど、望まずに刻まれた傷が、思いもよらない形で他人を救うことがあるのだろうと思う。
「傷ついた分だけ優しくなれる」という言葉を、本当は心の底から言える自分になりたいのかもしれない。まだどこかで反抗してしまう自分がいるけれど、暗がりの中で、あの日の友人のように、私は誰かに静かに寄り添える人でありたいと思うのだ。
2024.10.28 エッセイ-暗がりの中で