hikari

Open App
10/27/2024, 12:15:59 PM

紅茶の香り 

新宿ルミネの1階に紅茶の専門店がある。
紅茶といえば、ホテルの付属品を全て掻っ攫っては自宅で飲む程度の嗜みしかしらなかった。職場で東京都生まれ東京都育ちの生粋のお坊ちゃまおじ様から、冒頭の紅茶をいただいた。なんとなく仕事の帰りに寄ったところ、5,000円以上という金額に驚愕し、いそいそと自宅で箱を開けた。

紅茶の香り、に限らず、ワインやコーヒーなど飲料に関しての香りの区別は全くわからないタイプの人間だった。そもそも、私の育ちといえば商売人の娘であったのでゆっくりと食べ物を嗜むという感性がなかった。家族は馬車馬のように働き、ワークホリックとはまさにこのことかと学んだ。休んでいる日はなかった。父親からは「自衛隊は5分で食べるんだ」と叩き込まれていた。心の奥底で、お前自衛隊ちゃうやろ、という意見は喉までつかえていたが言うのをやめた。因みに親族に誰も自衛隊はいない。まじでなんだったんだ。

そういったわけで、おしゃれなカフェですら、1分でコーヒーを飲み干し、クッキーをバリバリと3秒ほどで食べ、滞在時間わずか5分で退店するような、人生の何かを欠落した女が出来上がったのだ。

しかし、手元にある紅茶は、ゆらゆらと湯気を漂わせながら優雅な香りを部屋に撒き散らしていた。「まぁそんな焦らんとゆっくりしときや」というエセ関西弁を話すバニラの妖精が私に語りかけているようだ。目の前の紅茶には、こんな私ですら「香りがすごい」という感想が脳に浮かばせるほどの威力を持っていた。さすが、職場のおじ様は東京の駅前の地主であるだけに、感性が研ぎ澄まされている。

香りは、バニラの香りだった。

バニラなんてアイス以外も味わっていいんですか?とくだらないことを考えながら、紅茶に湯を注ぐ。
100度にちゃんと設定しろと職場のおじ様に釘を刺されたので、言われた通りにした。

恐る恐る口元に近づければ、その甘い香りに軽く脳震盪を起こし、意識を戻して紅茶を口に運んだ。
当たり前と言われれば当たり前だが、甘くはなかった。
きちんとしたバニラの香りに、深みのある紅茶の味が口いっぱいに広がった。何度の湯であっても数秒で飲み干す強靭な舌ですら、この紅茶を楽しみたいと主張していた。

そのくらい、味と香りが美味しかった。

口に入れるものはおおよそ栄養補給他ないと考えていた私にとって、この紅茶の一杯は人生の革命だ。
香りを楽しむとはこういうことなんやで、と、バニラの妖精は私に語りかけるのだった。

折角このような紅茶をいただいたなら、
お洒落な容器でも買おうかしら、いや、紅茶似合うお菓子を小田急デパ地下で買ってみようかしら…なんてことが脳内に浮かんできた。間違いなく今まで働いていなかった脳の部分が活発に動き出している。あれ、なんか、私ワクワクしてる?下手な自己啓発本より人生に良いんじゃないかこれ。

私は1杯の紅茶をなるべく時間をかけて味わった。
長年咀嚼をしなかった罰か、それでも数分であったものの、間違いなく時間は伸びた。

別に食事は長けりゃいいってもんでもないと思うが、
私はこの紅茶の魔法に少しでも長く陶酔していたかった。

10/26/2024, 3:06:38 PM

愛言葉

「おにぎりあたためますか?」

お、と思った。久々に聞いた。
東京から地元北海道にもどり、小腹が空いたからコンビニでおにぎりを買った。この言葉。久々に聞くと戸惑うものだ。

学生の頃には日常的に聞き慣れていたが、内地では、某テレビ番組の名前として有名だと知り、なんだか違和感があったものだ。しかし今、改めて店員さんから直接言われると、いつの間にか自分の中でその言葉がテレビ番組名としての印象に置き換わってしまっていたことに気づいた。

「あ、お願いします。」

店員のおじさんは無表情かつ手慣れた様子でおにぎりをレンジに入れた。おじさんにとっては日常の一部、あるいはマニュアル通りのルーティンなのかもしれない。

けれども、この何気ないやりとりに、心がじんわりと温まるような感覚が広がってくる。ビジネスライクなやり取りの中に、ふと人とのつながりを感じさせる。

「愛言葉」なるものがどういったものかは知らないが、
おにぎり温めるかどうか聞くこの質問を、愛言葉の類のひとつと言われたら私は納得してしまう。

温まったおにぎりをレジ袋には入れず、手渡しでもらった。

単にレジ袋代をケチっただけだったのに、
コンビニのおじさんが温めてくれたおにぎりは、
私の冷えた指先をじんわりと温めていた。

10/25/2024, 5:47:08 PM

友達

大学に入って私は初めて友達ができた。

高校まではそれなりに連む同級生はいたが、友達かと言われると微妙だった。

友達の基準はなんだかわからないし、
明文化しているわけではない。

だが、大学に入ってから確実に私は友達ができたという感覚があった。

こう言うのは個人の感覚に任されるものだが、
安心感が違う、というのが一番大きい。
それはその友人自身の器量の大きさもあるが、
それとはまた別に、忙しくて特に連絡しないときであってもひとつの連絡で直ぐに元の関係に戻り、私がおかしなことを言ってもそれを話せる。また、私も、友人がしばらく連絡がなくともいつでもそのタイミングを待てるし、どんな話でも受け入れられる確信がある。

この謎の確信と自信はほぼフィーリングのようなものではないかと思う。実際私と友人は、マンモス大学で苗字が隣で意気投合、その後も健康診断で後ろに並び偶然出会ったと思えば同じ語学クラスという奇跡の連続だった。なんとなく放課後浅草行く?と声をかけてみたら、あまりにも生い立ちが似ていて生き別れの姉妹?と疑うほどだった。

話が戻るが、この安心感は、誰でも出せるものではない。友人に限らず、人間関係を築く一つの要素としてかなり重要だと認識させられた。

昨今では、幼馴染効果が凄まじく、
生まれた地域や共に育った人間との関わりが最重要かのように語られる節があるが、私は真っ向から否定派である。
正直、地元なるものは親が決めた地域でしかない。それよりも、自我を持ち、自分が考えて決めた場所で、出会い、価値観を共有した相手の方がよっぽど深い関係になる。友達の価値基準を年月に置くのは、もっと人生の後半でもよいのではと予測している。

まぁ、たまたま私の人生はそう感じただけで、
幼馴染に奇跡的な出会いをした人もいるかもしれないけど。

この「友達」ひとつとってもさまざまな価値観と論争があり、中でもステレオタイプのようなものは影響力が強く頭を抱える。何事においても、自分はどうであるかが大切なのだと気付かされる。

10/24/2024, 4:08:45 PM

行かないで

母が失踪した。変な話だが、母親の失踪は慣れたものだった。ある日忽然と姿を消し、2.3年後に姿を現す。破天荒な女の人だった。

母は3年前に再び姿を消した。
家には父と兄と私で暮らしている。
お坊ちゃん育ちの昭和生まれの父親と、破天荒な阿波弁を流暢に話す母親はよく喧嘩をした。毎日喧嘩してよく飽きないもんだなと感心するが、お互いがヒートアップすると誰も止められないくらいバイオレンスな結果になる日もあった。お互いの心のキャパシティを超えたところで、母親は嵐の如く去り、現れ、また去っていくのだった。
母にとってこの家庭という小さな箱は窮屈で仕方なかったのだろうか。それとも、まだ経験していない母という生業は想像を絶するものだったのだろうか。
父と母は恋愛結婚であったが、どちらとも何かと闘っているような分かり合えない苦しさを側から感じていた。
母の出身地から遠く離れた嫁ぎ先で母は決して方言を譲らなかった。母と一緒に母の地元に帰った時、なんだか地元の方言を聞いてるとほっとする、と言った安堵の表情が忘れられない。その顔にいつもの眉間の皺はなかった。私は父と母の両者の味方であり、すなわちそれはどちらの味方でもなかった。ただこの家庭において、2人の娘であることだけが繋ぎ止める唯一の概念のような自覚を持っていた。そこにはなんの自我もない、ただ存在しているような欠落した人格と罪悪感があった。

母がいなくなっても平然でいられるのは、
そのうち帰ってくるだろうという過去の記録から推測するものと、定期的に送られてくるクレジットカードの明細があったからだ。生きているなら、それでよかった。
小さな頃は母がいなくなるのがとても寂しくて、1人泣く日もあったが、いつしか子供じみていて泣くのをやめた。母がいなくても私は泣かなくなった。だけど、いつでも母がいなくなると寂しさだけは消えなかった。

母が失踪してから、私は中学を卒業した。
高校に上がって、私は少しずつ大人になっていった。
育ちざかりで肥えた体はだんだんと平均値になり、
人並みに恋をして、人並みに勉強した。
母が知らない数年間の間で私は随分と変わった。
毎朝早起きをしてお弁当を作り、授業を受け、部活をして、帰宅する。そんな日々を淡々と送り、高校3年生の11月に母は何食わぬ顔で帰ってきた。

正確に言うと、帰ってきていた。私が学校から帰宅したところで、先に家にいたのである。

「あ、おかえり」

母が言った。
突然のことで驚いたが、ただいまと返した。

「お母さん、帰ってたんだ。久しぶり」

今まで何してたの?と純粋に聞こうと思ったところでやめた。もし聞きたくない内容だったら嫌だったからだ。母と会うのは3年ぶりだったがとりわけ気まずくもなかった。これが親子か。それか私の心が死んでいるのか。

キッチンテーブルで地方の情報雑誌を見ていた母が、不意に言った。

「お母さん、大学いっとったんよ」
「え、大学?どこの?」
「奈良の」
「へー。奈良いたんだ」

大学?!お前行くの2回目やろ!と言う予想外の話の展開に驚く気持ちと、大学行ってたのかよかった…という謎の安堵感に包まれた。資格取得のために大学に行ったそうだった。60代母の清らかなキャンパスライフを聴きながら、私は白湯を啜った。なんとなく恋愛の話が出なくてよかったなと思った。まぁ出るわけないか。ひとしきり話して満足した後、今度は私のターンになった。

「あんたは何しとったん」
「いや、なんも、普通」

自分の話をするのは昔から苦手なので、母の話に切り替えたい。

「それよりさぁ、お母さん資格とって何するの。1人で暮らしてくの?」
「いやぁ、まだ就職先とかは決まっとらんのやけどな、まぁいずれ1人になってもやっていける自信が欲しかったんよ。そうなったら、あんたら2人を連れてどこでも行けるけんなぁ」

連れてけるって、私来年大学いくよ。
東京行って一人暮らしするし。お母さんがいない間、私結構大人になっちゃったんだけど。

「わたし来年から東京いくよ。大学。地元にはもう帰らないと思う」
「ほうなんけ。そら、さみしいなぁ」

少し沈黙が流れた。寂しいなんて、私は母に言ったことがなかったのに、母は平然と言うのであった。
私が成長すれば、母も歳をとっていた。知らぬ間に母が60代になり、知らぬ間に時が過ぎたことを実感するのは苦しかった。私の人生はこれからのはずなのに、始まってすらいないような、すぐ終わりがあるような不安感が常に心に付き纏っていた。

母が帰ってきたと思ったら、今度は消えて無くなりそうな儚さを感じた。母のシワの増えた手をみると、私は悲しくなった。その経過をアハ体験でもできればよかったのに。「さみしい」の4文字が締め付ける心の苦しさを、母はきっと知らないのだと思った。母が玄関から去っていくたびに、私の心臓は細い糸できつくぎゅうっと締め付けられて、そこから上昇した感情がいつも涙となって昇華していた。

「私は、この家来年でていくけど、お兄ちゃんは家にいるしさ」
「うん」
「私は正月は帰るし」
「うん」
「お父さんも最近丸くなったしさ」
「うん」
「私が帰る時はさ、お母さんもおってよ家に」
「…うん」

母の罪悪感と、私の罪悪感。
どちらも、やるべきことをやっていない罪悪感。
母の業と娘の業。私たちは明らかに足りていない。
だから、私にとっての我儘は今の会話が限界だった。

オレンジ色のライトが私たちを包み込んでいる。

母がそこにいる事実だけが、私の心を溶かしていた。

2024.10.24 行かないで

10/23/2024, 4:36:07 PM

どこまでも続く青い空


適応障害になったとき、終電までホームから電車に乗ることができなかった。仕事が定時で終わったときですら、ひとりホームに蹲りながら鉛のように重い足をなかなか動かせずに立っていた。帰宅ラッシュの時間には、そんな私は邪魔なもんだから、舌打ちするおじさんもいて実に申し訳なかった。なんとか電車乗れるのもおおよそ終電の時間あたりで、それまでは電車が行き来するのもひたすら見ていた。あの黄色い線の先に吸い込まれそうになる感覚は、物理的なものか果たして私のこころか。

私の職場は学生街の中にあった。コロナ前は早朝はゲロが散乱し、帰宅時間には酔った学生が駅前のロータリーで校歌を熱唱している。職場のお育ちのいい女の先輩が、「まったくバカでいやぁね」とランチどきによくその話題を出していた。そして、その次に医学部の弟の話をして貴重な1時間の休憩タイムは終わる。
酔ってゲロを吐く大学生よりも、スーツ着ながらどうでも良い話を真面目に聞いている私の方がよっぽど馬鹿馬鹿しかった。

普段は付き合い程度にしか吸わなかったタバコも、ストレスなのか、堅苦しい社会人に対する反発心かはわからないが頻度が格段に増えた。学生が集うロータリー内には喫煙所があり、仕事終わりにいつも吸っていた。身体に良いはずがないのに、深く吸うタバコの呼吸があまりにも心を落ち着かせた。コロナになって、ロータリーが閉鎖されるまでは、学生の声をbgmにタバコを吸いながら夕方の空を見上げていた。

諸々の事情を経て、仕事を辞めたのは8月だった。
退職した帰り道、猛暑により、目の前で歩いていたおじんさんが倒れ、救急車を呼んだ記憶がある。コロナも終盤に差し掛かっていたが、熱中症患者が増えたことで救急車が繋がらなかった。そこそこ小柄なおじさんだったので担ぎながらおじさんの家まで運んだ。近くのコンビニでポカリを何本か買ってとどけた。その後も救急車を呼ぶために電話をかけたが繋がらず、意識がもどったおじさんに帰れと怒鳴られて、逃げるようにその場をさった。

その日は、腹立つほど快晴だった。

仕事を辞めてからしばらく時間が過ぎた。働きたくても働けない状態で、傷病手当でなんとか凌いでいた。
私の一点の光は、恋人がいることだけだった。ああ、今この人がいなくなってしまったらワタシ終わる。何かが終わる。という、根拠もなく確信的な不安が私の余裕を無くしていた。地獄から一本の蜘蛛の糸にすがるカンダタも、これくらい余裕がなかったはずだ。
当時付き合っていた彼氏は優しい男だった。怒らず、穏やかで、のらりくらりと人生を生きていた。ストレスとは無縁なところが魅力的な男で、生きることに器用な印象を与えた。そして、その器用さが証明されたのは、浮気が分かった時だった。
浮気が発覚した時って、もっとこうドラマティックに心臓がバクバクすると思っていた。私の場合はというと、彼がシャワーを浴びている時にスマホの通知がなって、女からのやりとりが浮気そのものであったのである。
問い詰めるか、これからどうするか考えなくてはならないところで、私は家を飛び出した。感情は恐ろしいほど何もなかった。

その日も、青々と日照りの良い快晴であった。

職も男も失ったところで、私は途方にくれていた。
連絡先はすべて絶った。短期間で、あらゆるものを無くした。
いままでの関係性を全て壊すことが、今の私の心を救うためには必要だった。誰の何も聞くことができないと思っていた。1人になりたかった。

私は自分の家からひとしきり歩いて、
学生のころ住んでいた、中野に来ていた。
中野駅はいつでも賑わっている。
なんでかわからないけど私は中野が好きで、
ここにくるといつも落ち着く。
駅前の有名なお焼きを買って、改札前の丸いベンチに腰掛けた。ここは、おっさんの下世話な自慢話とマッチングアプリで待ち合わせた男女の挨拶がいつでも聞けた。
お焼きを食べながら、空を見た。いやというほど晴れていて心は曇天なのにその非対照さが嫌だなと思った。
いっそのこと、雷雨の中でびちゃびちゃになりながらお焼きを食べたい。
私は、大きなため息をついた。

「おねぇさん、なにしてんの」

不意に声をかけられて驚いた。左側をみると、そこには直毛の少し髪の長い青年がいた。ナンパか?と身構えたが、話し相手が欲しかったのでどうでも良いなと思った。

「いやぁ、なんもしてないよ」
「でかいため息ついてたよ。こんな晴天なのに、空見てため息つく人あんまいないね」

あはは、と適当に返したところでやっぱり知らん奴と会話するのはめんどくさいなと思った。適当にこのまんま帰ろうかなと思ったところで、男は会話を続けた。

「おれ、悩み聞いてあげようか。今暇だし」
「え?いやてか、あんたいま何してんの?新手の営業?勧誘?」
「おれは待ち合わせだよ。これから女の子来るんだけど、まだ時間あるから」

は?彼女持ちかよ!男ってのはよ!どいつもこいつも!

「あ、彼女いる男は興味ないわ」
「いや、違う違う、女の子はお客さん。お仕事だよこれから。俺仕事柄いろんな女の子見てるからさ、なんかなんとなーくお姉さん気になっちゃって」

あ、なんの下心もなくね!と付け加えられた。下心ないのか…と一瞬謎に落ち込んだところで、私の中のフェミニストが「じゃあお前なんぼのもんやねん!」と騒いだ。北国出身でありながら、心のフェミニストはいつも関西弁である。ここで重要なのは、下心が女を喜ばすわけではないけど、あらためて言われると謎に心外だと思うよねって話。

それもそれで、じゃあ尚更一体なんなんだよ。
というか、女の子とのお仕事ってそういうこと?
確かに妖艶な雰囲気あがある青年だった。
こんなお天道様がギラギラと張り巡らせている快晴の下でも、そのオーラは紫色だった。

▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎▶︎一旦トチュウ


中野であった青年に、
友愛と家族愛と性愛の話をされました。
かなり印象的な出来事で、その話を書きたい。
書きたいけど眠い!
眠い!最近最後まで書けてない!最後まで書ける人ってすごい!

Next