大粒の涙で脚色された彼の長い睫毛を目にして、
なんの施しもない
あどけない素肌に触れられることを許されて、
僕は本当の意味で彼の真髄に焦がれることができたのだ。
煙たいオーディエンスの評価も、
はたまた"先生"なんて
呼ばれたあのお方の絶対的審美眼も、
彼自身による黒黒と燻る自己嫌悪も、
僕が感じた本当の彼に対する
抗えもしない運命的な魅力の前では何もかも無意味だ。
道化なんて言葉は、
それこそあの天才小説家でもない我々には必要がない。
今まで散々称え祈り続けてきた
"完璧"なんて聞こえの良い言葉は、
一種パノプティコンのような我々という
愚かな罪人を包囲し監視する末恐ろしい呪いにすぎない。
理想と完璧の区別が付かなくなる前に僕らは、
この何処までも続く永久の牢獄から抜け出さなければならないのだ。幾度夢見た天国への汽車に乗り遅れる前に。
誰でもない自身が用意した出来損ないの台本を、仮面を、 スポットライトを、嘘と見栄と苦労ばかりで象られた己を燃やし尽くす日の足音が刻々と僕らの心臓を揺らして回っている。
僕らは、登場人物でも比喩でもない
本物のユダに成らなければいけない。
僕らは、自然体という名の
世界一清らかな美に気が付かなければいけない。
僕は、彼を幸せにしなければならない。
2026/03/02【たった一つの希望】
「先生の命の幕閉じを、私に委ねてくださいませんか。
情死より、自決より、もっと扇情的で焦がれる様な、どんな物語より残酷な様な、貴方様の理想の死を、このしがない青年が、全てをかけて演出しようではないですか。
幾多の人間の血が溢れ滴った様なあの花も、年季の入った劇場の床板の様なあの棺も、例え足が擦り切れ爛れても探し出し、全て整えましょう。
貴方のその角張った掌を優しく握りしめ、指先のその紅い火照りが消えるのを一時も残さず見届けましょう。
貴方のその愛おしい吐息の途切れる音も、
貴方のその内傷に悶えた少年の様な泣顔も、
全て身に刻み、背負って、後世まで苦しみましょう。
ですから、ですから今日は、何ひとつ舞台道具の揃わない今日は、後味の悪い安酒でも嗜んで、しけった畳の匂いに蝕まれて、共に悪夢を見ようではありませんか。
僕は、貴方様がいれば悪夢など、
刺繍針の一差しにも及ばないのですから。」
そう言って目を細めた彼の小指の温もりが、徒花によく似た彼の全てが、私をこの世に貼り付けて離さないのだ。
私は、掬いきれなかった花弁の言の葉を、この身が枯れるまでひしと抱きしめていなければならないのだ。
こんな酒一つで彼から逃れられるほど私が正気でないことを、夜が来る度、嗤っては泣く。湿る縁側で項垂れた死に損ないの瞳を桜の波が横目に嘲笑って地に落ちた。
夜明けは未だ、当分先である。
2026/02/27【現実逃避】
『シルクの様な月白の髪』
たとえこの髪に触れる手が彼女じゃなくとも、
僕が愛らしくいなければならないことに変わりはなくて。
ただひたすらに艶を帯びる天使の髪は決して枯れていいものではない。
僕が僕を愛するために。
『レースに包まれた華奢な手』
彼女が引いたこの手を
守るためだけに僕は今日も分厚いレースを纏う。
いっそのこと斬り落として美術品の様に飾れればいいけれど、月に透かした自分の左手はあまりにも綺麗で、純白で、愛おしくて、この手があれば、また月に触れられるような気がしてしまって。
彼女からの指輪を待つ口実にして僕は今日も正気に戻る。
『ライトピンクのクラシックロリィタ』
鎧代わりのその衣装はあまりにも僕の全てだった。
彼女のことを抱きしめられなくても、この彼女の生き写し”さえ纏ってしまえば生きていける気がした。
頑丈で完璧な”可愛い”に身を包んでしまえば、数多の傷なんて大したものではない。
ゆりかごから墓場まで貴方の愛した僕でいれるから。
星屑と夜空を瞼に映して、
お気に入りのリボンでシルクを纏めて、
喉元のそれを静かに隠して、
成長する何もかもの生気を止めて、
僕の醜さ全てを殺して、
あとは、
あと、
あとどうしたら、君になれる?
何時だって鏡をまともに見れやしない。
僕を愛した彼女は、
僕の愛した君はこんなんじゃなかった。
『低さの増す声色、可憐さを失う身体』
何もかもが心と相反していく。
紛れもない事実が、
本当の自分が僕の命を背後から狙っている。
『成長、現実、制限時間』
培った努力が、
精一杯象った彼女の面影が音を経てて崩れていく。
可愛くない僕に、彼女になれない僕に価値はないのに。
本当の僕を認めてくれる存在なんて、
もう何処にもいないのに。
いつか終わる日が来る。
逃れられない日が来る。
君に失望される日が来る。
そうなる前に、僕は、
何時もより強く振りかざされた刃物の残像を、止める腕を持たない月の光だけがただ只管に哀れを嘆いていた。
『貴方は只、貴方でいればよかったのに。』
月に口無し、盲目に死あり。
二人の愛は決して交わることのないまま。
御伽噺になることのないまま。
2025/11/05【時を止めて】
初恋はレモンの味と言うが、では香りはどうだろうか。
裏庭になったグリーンレモンを見上げて、
ふと記憶の中の彼と目が合った。
若くしてこの館の庭師を務めていた彼は、
まさしくレモンの様な後味の残る人であった。
謙虚で人思いな彼から時々湧き出る美への真剣で高貴な眼差しは、真正面から見つめられた訳でもない私の心にまで一つ大きな釘となって深く刺さっている。
もう二度と戻らぬ裏庭の天使様。私の無垢をそっと盗んだまま隠り世に飛び立った酷いお方。嗚呼、貴方の硬い掌が一生柔らかくなることのありませんように。
この楽園に来る度に私は、レモンの甘い誘いに乗って地から足を離してしまいそうになるのだった。
隠り世に誘う陶酔を覚ますように、
ふと背後から強く香り風が吹いた。
キンモクセイ。
私の意識を現世に戻すその香りはキンモクセイであった。この楽園の存在を隠すように
裏玄関を囲って嫌と言うほど咲いている。
色濃く、そして儚い丹桂も正に彼の瞳であった。ある様な気がした。無造作に一つ結びされた髪、棘に触る私を諭す柔らかな声、二人だけの楽園を開くその瞬間の、あの脳裏に焼き付く罪な誘惑の香り。
愛していた。時に死を想う引き金であるほど、そして時に生を取り戻す生き甲斐であるほど、愛していたのだ。香りも痛みも全て、愛しているのだ。
彼の世に誘うも現世に留めるも全て彼次第である事実に嗤って、そしてまたあの頃の様に泣いた。
座り込む私の傍に一つ、薫る天使の花弁が散っていく。
私はこの天使の残り香を一生忘れることはできない。
初恋の香りはただ一つ、キンモクセイの香りである。
2025/11/04【キンモクセイ】
海を見て冬を実感する感触は、
過去の幸福を省みて孤独を知る痛みとよく似ている。
このまま波打つ怪物の住処に身を投げようと、
引き揚げて攫って抱きしめてくれる神様など存在しないことを、涙一粒の湿度も消える程渇ききった風に当てられてようやく覚えるのだ。寂しい手の指にはたった一つ水縹の指輪が光るばかりである。
幾度と莫大な不安感に背中を押され始発列車に飛び乗ろうと、結局はその広く果てしない生命の青に魅了され、その小さな波の端に足をつかすことさえ恐れてしまうから、私はこの人生という等に枯れ果てた花束の残骸を背負っているのだろう。
どれだけ私の心が荒もうと、海は青い波をひたすら打つだけであり、私の中心に燻る心臓もまた赤い脈を打ち続けるばかりであるから、この世はどうも苦しい。
"国破れて山河あり"という諺を頭に浮かべてはまた、幼いあの日の彼女のいたいげな微笑みの一つに脳をジリジリと焼かれていく。
この彼女の全てに焼き爛れた脳は、いくら絶対零度の凍える海でも冷やすことは不可能である。
沸騰した脳の暑さを逃がすように、彼女の住まう石造りの小さな家に慈しんで水を注ぐように、登る朝日に心洗われるように、私はまた、この今際の際で一頻り涙を流すのだった。
2025/11/02【凍える朝】