初恋はレモンの味と言うが、では香りはどうだろうか。
裏庭になったグリーンレモンを見上げて、
ふと記憶の中の彼と目が合った。
若くしてこの館の庭師を務めていた彼は、
まさしくレモンの様な後味の残る人であった。
謙虚で人思いな彼から時々湧き出る美への真剣で高貴な眼差しは、真正面から見つめられた訳でもない私の心にまで一つ大きな釘となって深く刺さっている。
もう二度と戻らぬ裏庭の天使様。私の無垢をそっと盗んだまま隠り世に飛び立った酷いお方。嗚呼、貴方の硬い掌が一生柔らかくなることのありませんように。
この楽園に来る度に私は、レモンの甘い誘いに乗って地から足を離してしまいそうになるのだった。
隠り世に誘う陶酔を覚ますように、
ふと背後から強く香り風が吹いた。
キンモクセイ。
私の意識を現世に戻すその香りはキンモクセイであった。この楽園の存在を隠すように
裏玄関を囲って嫌と言うほど咲いている。
色濃く、そして儚い丹桂も正に彼の瞳であった。ある様な気がした。無造作に一つ結びされた髪、棘に触る私を諭す柔らかな声、二人だけの楽園を開くその瞬間の、あの脳裏に焼き付く罪な誘惑の香り。
愛していた。時に死を想う引き金であるほど、そして時に生を取り戻す生き甲斐であるほど、愛していたのだ。香りも痛みも全て、愛しているのだ。
彼の世に誘うも現世に留めるも全て彼次第である事実に嗤って、そしてまたあの頃の様に泣いた。
座り込む私の傍に一つ、薫る天使の花弁が散っていく。
私はこの天使の残り香を一生忘れることはできない。
初恋の香りはただ一つ、キンモクセイの香りである。
2025/11/04【キンモクセイ】
11/4/2025, 1:53:07 PM