匂いは記憶と結びつきやすいと言う
つまり匂いを纏うという事は、記憶を纏うという事だ。
「少し気が早いとも思ったんだけど……」
秋の香りを纏って現れた君が言う。
僕は「良い匂いだと思うよ」と返すと、ニコリと笑った。
君が動く度金木犀がふわりと香る。いつかの小道で散歩した景色や、肌寒い空の下交わした言葉が蘇り消えていく。
きっと街角で金木犀の香りを嗅ぐたびに、今日の君の事を思い出すのだろう。
「きゃっ」
短い悲鳴が聞こえ、君はその場から僕の方へと駆け寄ってくる。
足元を見るとひっくり返った蝉が動いていた。遠くではひぐらしが鳴いている。君からは金木犀がまた香った。
なんとも情緒が入り乱れた空間だろう。それが面白くて、思わず笑った僕に君はむくれている。
「君の事を笑ったんじゃいよ」
「本当に?」
「本当さ」
きっとこの会話も、この景色も、音も……金木犀が香るたびに思い出せるかな。
きっと、思い出すだろう。そしてその時にまた、君と話しをしよう。
なんて事無い日常の一欠片の思い出話を。
その日は休日だった。普段なら仕事をしているのだが、先日代打で入った休日出勤の代わりに出来た振替休日。平日ど真ん中の水曜日。何処かへ行こうにも明日はまた仕事。遠出も出来やしないし、部屋の片付けでもしようかなんて考えていた朝だった。
テレビの横に置かれたデジタル時計が10時12分になった頃、家のチャイムが鳴った。荷物が届くような事は無い筈だし、勧誘か何かだろうか。だったら居留守を使おうと思いながら、インターホンを確認する。画面に映った意外な人物に驚き、俺は慌てて玄関に向かった。
「よぉ。元気か?」
扉を開けると、聞き慣れた声が飛び込んでくる。久しく会って無かったその顔が目の前にある事に俺は驚きが隠せない。
「山﨑……久しぶりだな」
「ヤマサキな。お前変わんねーな」
「お前もな」
俺は目の前に現れた彼――山﨑透をとりあえず部屋の中へと招いた。彼とは高校時代同じ寮の部屋で過ごした仲だった。お互いその後進学した大学が一緒だったのでよく会っていたが、就職後は中々会えず、最後に会ったのは1年前…友人の結婚式だったと思う。
「んだよ、相変わらず散らかってんねぇ〜。この様子じゃ片付けてくれる彼女も居ないってか」
「余計なお世話だよ。これから片付けるつもりだったんだ」
「へぇへぇ。お前はそう言って片付けた試し無いだろ」
「うるせ。適当に座ってくれよ」
「悪いね。あ、これお土産」
部屋を見回しながら山崎は物をどかしてソファーに座る。来るのがわかっていたなら昨晩のうちに部屋を片付けたんだが、どうしてこいつはいつも急に来るのだろうか。
大学時代もそうだった。レポートが終わらないと言い夜中に押し掛けて来たと思ったら、ある日は早朝5時に出掛けるぞ!と部屋まで入って来た。
お互い何があるかわからないと合鍵を渡していたのも悪いのだが、時間帯やら予定やらを確認して貰いたい。
しかし何故だか、彼が来る時は必ず俺は暇なのだ。何か予定が入っていても、キャンセルになってしまった日なんかに限ってやってくる。
「んで、ヤマは何しに来たんだよ。相変わらず急に押し掛けてくるよな。俺が居なかったらどうするつもりだったんだ?」
「でも、居ただろ?オレはお前が居るのをわかってて来てるんだよ」
「お前って昔からそうだよな。なんで俺が暇だってわからんだ?」
「特殊能力ってやつかな」
そう言ってダサい決めポーズでドヤ顔をする。山﨑のこういうおちゃらけた所も相変わらずらしい。そしてセンスが微妙なのも相変わらずな様だ。
「急に来といてなんだけどさ、時間が無いんだわ。ちょっとオレに付き合ってくれよ」
「本当になんなんだよ。相変わらず忙し無い奴だな」
「たまには良いだろ?」
「仕方ないな。付き合ってやるよ」
「そう来なくっちゃ」
山﨑はいつも俺を引っ張ってくれた。何処へ行くのも何をするのも、山﨑が俺を誘い俺は後ろをついていく。多少強引な事もあったが、その強引さが心地良かった。
俺は昔から積極的に何かをする方では無いし、自分の意思で決める事が苦手だ。何をするのも、始める為の一歩が中々踏み出せない。踏み出す位ならやるなくても良いとすら思うタチだった。
そんな俺とは反対に山﨑はなんでも突っ込んでいく、ガキ大将のような男だった。
何をするにも一番。みんなの先頭に立って引っ張っていく。気になる事はすぐにやってみるし、思い立ったらすぐ行動に移す。リーダーシップに長けていて、いつも周りには人が集まっていた。
明るくて、ユーモアがあって面白い。勉強はあまり得意な方では無かったが、運動は出来た。女子にはモテないが男子にはモテる。同性、異性問わず、友達にしたいタイプの人間である事は間違い無かった。
そんな山﨑の性格が大人になっても変わってない事に嬉しくなりながらも、やはり急に押し掛けて来た事が気になった。
大体今日はたまたま振替休日で家に居たから良いものの、普段なら仕事をしているのだ。急に来られた所で留守にしている。
「ヤマ、なんで今日俺が家に居るってわかったんだ?」
「俺エスパーだから」
「……じゃあ、なんで急に家に来たんだ」
「お前に会いたくなったからかな」
「…………会話にならねぇ……」
「ははは、相変わらず細かい事を気にするよな。んな事どうだって良いだろ。そのうちわかるんだから。それより支度出来たならさっさと行こうぜ」
山﨑は立ち上がって玄関に向かうと、靴を履いて外へと出ていった。こういうせっかちな所も変わってないらしい。
「待てよ、すぐ行くから」
俺も慌ててバッグに荷物を置いて詰め、山﨑の後をついていった。
***
「そんなに大荷物……何入ってるんだ?」
電車に揺られながら、山﨑が、不思議そうに俺のバッグを見つめている。心配症は昔からで、つい荷物が増えてしまうのだ。
「何って大したものは入ってないよ。財布だろ、携帯だろ、タオル、リップ、日焼け止め、パンツ、靴下、エコバッグ、ゴミ袋、ティッシュ……それから……」
「待て待て、財布、携帯、タオルまではわかるが、パンツと靴下ってなんだよ。要らないだろ」
「急な雨で濡れるかもしれないだろ?」
「どれだけの雨にうたれるつもりなんだ?大体折り畳み傘だって持ってるんだろ?」
「あぁ、もちろん」
俺はバッグから取り出した折り畳み傘を山﨑に見せる。コンパクトだがちゃんと大きく広がる折り畳み傘だ。これは普段からバッグに必ず入れている。
「相変わらずの心配症だな。今日は晴れ予報だぜ?」
「何が起こるかわからないのが夏だろう」
「準備が良いと言えば聞こえは良いが……。いや、お前の場合いつ災害にあっても大丈夫そうだな」
「あぁ。非常食セットも持ってるぞ」
「本当に準備が良いよ、お前は。俺もお前位準備が良ければな……」
「何か言ったか?」
「いや。お前はそのままで良いぞって話だよ」
電車で揺られる事2時間。他愛無い話や昔話に花を咲かせていると、2時間という時間はあっという間だった。
着いたのは神奈川県藤沢市江ノ島。平日ど真ん中という事で、流石の観光地も空いている。
「よし。じゃあ、海鮮食いに行くぞ!」
「その為にここまで来たのか?」
「シラスの時期だから美味いんだよ。オレは死ぬ前にシラス食っとかなきゃ、死んでも死にきれねぇと思ってさ」
「お前ってそんなにシラス好きだったか?」
立派な門構えの駅を出て真っ直ぐ進む。海の上の橋を渡ると、海鮮の炭焼きが良い匂いを漂わせてきた。
「イカ焼きもあるぞ。浜焼きも美味そうじゃん。何処の店入るんだ?」
俺はこの辺りの海鮮に入ると思ったのだが、山﨑は一行に足を止める気配がない。
「そんな所じゃ食べねーよ。美味い店があるんだ。ほら、行くぞ!ここまで来たんだから、登らなきゃ損だぜ」
「はぁ!?まじで言ってんのか?」
そう言うとさっさと山﨑は歩き出した。鳥居に向かう坂道を登り、段々に折れ曲がる階段を登っていく。途中現れた神社でお参りをしたかと思うと、またすぐ上へと登っていった。
「ストップ……休憩……。一旦休憩……」
俺は暑さと慣れない運動で汗が止まらず、上がった息も整わないというのに、前を行く山﨑は息が上がるどころか汗一つ掻いていない。
普段から運動をしているのかもしれないが、それにしたって結構な距離を登ってきたというのに、おかしなものだ。
「ったく……情け無いなぁ。本番はこっからだぞ」
「本番が……ここからだ……?ここ、もう頂上だろ?」
俺は目の前に見える灯台の方を見る。この先に行けば蝋燭灯台の展望台がある所だ。確かにまだ道は続いているが、奥は確か恋人の聖地と呼ばれるカップルのスポットとその更に奥に岩で出来た洞窟がある位の筈。
俺たち2人で恋人の聖地に行った所でどうしようもないし、岩の洞窟に行くなら最初から船に乗っていた筈だ。だったらこの先何処まで行くつもりなのか。
「何言ってんだよ。まだ海鮮食ってないだろ?店があるのはこの先」
「げっ……まじかよ。観光で腹減らしに登った訳じゃねーの?」
「当たり前だろ。まぁ良いや、少しそこで休んでろよ。たこせん買ってきてやるから、分けよーぜ」
そう言って、またも俺を放置し山﨑はさっさとたこせんの列に並んでいった。
俺は近くの木陰にあったベンチに腰掛け、汗を拭う。途中自販機で買ったお茶はすっかりぬるくなっていた。
「お待たせ」
半分に割られたたこせんとラムネの瓶を持って山﨑が戻ってきた。たこせんは早くも山﨑の口に入っている。
「食うのが早ぇよ」
「これはあったかいうちに食うのが良いんだよ」
薄く伸びたたこを味わいながら、冷えたラムネを流し込む。しゅわしゅわの炭酸が喉の奥を通っていく感覚が気持ち良い。甘ったるさも今は丁度良かった。
「江ノ島結構来るのか?慣れてるけど」
「来ないよ。忘れたのか?昔お前と2人で来たの」
「え?あぁ……大学の時のか?そういや来たっけなぁ」
「お前の恋愛成就願いに来ただろ〜。結局告れずに、相手の子彼氏作っちゃったけどさ」
「良いんだよ、それは……」
「男ばっかの寂しい青春だったぜ。今思えばそれはそれで楽しかったけどな」
「まぁな」
空を見つめる山﨑の横顔が何処か切なく見えたのは気のせいだろうか。
俺は残りのラムネを飲み干し、立ち上がった。
「急ぐんだろ?昼になっちまうぜ」
「なんだ?たこせん食ったらやる気出たんだろ」
「そんなとこだ。行くぞ」
空き瓶を店先に返し、俺たちは更に奥へと向かっていった。なんとなくラムネについていたビー玉は回収しておいた。
そこから更に歩いて30分は経っただろうか。目的の店まで来たのに、山﨑は入ろうとしなかった。
「この店なんだろ?平日だから、まだそんなに混んでないぞ」
「んーそうなんだけどさ。ちょっと先に寄りたい所あるから、付き合えよ」
「お前……シラス食いに来たんじゃ無かったのか?」
「まぁ、良いじゃねぇか」
山﨑はいつも多くを語らない人間だったが、今日はいつもにも増して口籠っていた。何か大事なことを伝えなくてはならないのに、それを後回しにしている様な。しかし俺はそれを聞き出す事はせず、山﨑が言い出すのを待っていたのだ。
何度か登って降ってを繰り返し、最後長めの階段を降りた先に、大きな岩の洞窟が見えた。紅い橋がかかっていて、これを渡ると洞窟に行ける。
手前にもゴロゴロした大きな岩が剥き出しになっており、浅瀬の辺りで水浴びをする子供の姿も見られた。
「良い景色だろ。夕焼けが綺麗らしいんだ」
海の奥に見える江ノ島の町を眺めながら、山﨑が呟く。
「今は昼間だし夏だから陽も長い。夕焼け見たかったんなら、もっと遅く来ないと」
「時間無かったからさ。昼間で良いさ、お前とこの景色見れたなら」
「んだよ、気色悪いなぁ」
「へへっ。良いだろ、今日くらい」
ポケットの中の携帯電話が鳴る。画面を見ると、また懐かしい名前が表示されていた。
高校時代同じクラスだった田宮だ。山﨑と同様大学も一緒で、今でもたまに連絡を取り合う仲である。
「時間切れか……」
「何が?」
俺が聞き返すが、山﨑は何も返さない。ただ悲しそうな、寂しそうな笑顔で俺に笑い掛けるだけだった。
「出ろよ、電話。大事な用かもしれないぜ」
「あ、あぁ」
俺は山﨑に言われるがまま、電話を取った。
***
「もしもし、田宮か?どうしたこんな時間に電話なんて」
「山下……。今、会社か……?」
いつもより低い田宮の声。所々鼻を啜る音が聞こえる。
「いや。出先だけど、どうかしたのか?」
「そうか。タイミング悪かったな。悪いがこっちも急ぎだから…。落ち着いて聞いてくれるか」
「なんだよ、仰々しな」
「…………ズビッ……はぁ……」
電話越しからは鼻を啜る音と深呼吸の声。明らかにいつもとは違うその様子に、俺の脈が上がる。一体何を切り出そうとしているんだ。
「……ヤマが………山﨑が……死んだ」
「………………は?」
俺の思考が一瞬止まった。何を言っているんだ、こいつは。だって山﨑はここに居る。今、ここに居て……俺はずっと山﨑と一緒に江ノ島にきて……。
振り向くと、泣きそうな笑顔で山﨑が俺を見ていた。そうか、お前はちゃんとわかっていたのか。わかっていて俺のところに来てくれたのか……?
「驚くのもわかる。俺も今聞いたばかりで混乱してるんだ。数日前…九州でデカい台風が直撃しただろ?あの時出張で九州に居たらしく、その時起きた土砂崩れに巻き込まれたらしい。子供を庇う形で見つかったって。幸い子供は無事だったが、ヤマは発見直後流れてきた別の土砂に埋もれて………結局……うっ……ぐすっ……」
「もういい……ありがとう、田宮。また連絡する」
最後まで何とも山﨑らしい。ガキ大将で子供が大好きで弱きものには優しかった。クラスで浮いている子がいれば声を掛けるし、嫌な先輩が居れば乗り込んでいった。そういう優しさは昔から変わってない。
俺は電話を切り、目の前で消え掛かっている山﨑に近づいた。
「俺に会いに来てくれたのか?」
「何言ってんだよ。俺は海鮮食いにきただけだって」
「海鮮食うだけなら下で良かっただろ」
「上にある店が良かったんだよ」
こういう時でも減らず口だ。あぁ、でももう……一緒に食べられないんだな。
「もっと……お前と一緒に居たかった。結婚式だって呼びたかったし、お前にスピーチ頼むの夢だったんだぞ」
「お前相手居ねーじゃん」
「これから作るんだよ!旅行だって、夕焼けだって……本当はお前と……一緒に……」
溢れ出す涙が止まらなかった。目の前に居るのに、まだ触れられるのに、もうこの世に居ないなんて信じられなかった。だけど頭ではちゃんと理解しているから、だから涙が止まらないのだ。
視界がボヤける。薄くなる山﨑の身体を、表情を最後まで目に焼き付けたいのに、ちゃんと見られないのが悔しい。
「俺は最後にお前に会いに来れて良かったぜ。また2人で来たかったからさ、江ノ島」
「お前、海好きだったもんな」
「あぁ……シラスもな」
「シラスはお前の代わりに食べといてやるよ」
「頼むぜ」
「おぅ。だから……もう大丈夫だ。安らかに眠ってくれよ」
涙を堪え、俺は山﨑に笑い掛けた。大丈夫、俺は大丈夫だから、お前は自分の逝くべき所へ行ってくれ。俺はまだちゃんとここに居るから。
「俺は先に逝くけど、お前はまだ来るなよ。俺が天国で入国拒否してやるから」
「お前にそんな権限ねぇだろ」
「うるせ」
眩しい日差しが山﨑の身体をキラキラと反射させていく。もう殆ど表情がわからない位に、身体は透けてしまっていた。
「お前に出逢えて良かったよ。ありがとうな、相棒」
「俺もだ……。もう少し待っててくれよ、相棒」
その言葉を最後に、山﨑の姿は見えなくなった。最後の表情は見えなかったが、笑っていたと思いたい。
***
涙を拭いて俺は1人来た道を戻った。
途中寄る予定だったお店でしらす丼を食べた。しらす丼は塩の味が効いていて、ほんのりしょっぱい味がした。
階段が続く登り道、1人息を上げながら山を登り降り海沿いを歩く。やっと着いた鳥居を過ぎて、炭火の匂いを嗅ぎながら帰路へと着いた。
帰って来た頃にはすっかり陽は暮れ、真っ暗な部屋に、ゴミと荷物が散乱している。
部屋の灯りをつけ、机の上に置かれたお土産を手に取る。これは確か、山﨑が持って来たものだ。包装紙には九州名物などと書かれている。
「本当に九州から来たんだな……。土産まで律儀に持って来やがって」
俺はそれを台所に置き、ゴミ袋を持って戻ってきた。散らかった部屋を片付けるのだ。
相棒にまだ来るなと言われてしまったから、まだそっちには行けそうにないな。
まず手に取ったのは、机の上に置いていた遺書だ。俺はそれを破って、ゴミ袋の中へと捨てた。
#シラス丼を食べに 【突然の君の訪問】
″やるせない″とは″遣る瀬無い″と書くらしい。
遺ると書いて″やる″と読む事自体初めて知った。遺の意味は何かをのこす、何かがのこるという意味の他にそこへ向ける、差し向ける、という意味もあるらしい。
この漢字一つでやるせなさの8割は表しているようなものだ。
瀬の字を見てみると、急流や水の流れを表すと辞書には書いてあった。面白みが無い程にそのままの意味だ。
先程の遺の字と合わせたのは何故だろうか。水に流せとでも言うのだろうか。余計なお世話だ。
水に流せるようなものではない気持ちが、ぶつける先もなく自分の中に溜め込まれてしまう気持ちが、やるせないという表現になるのだ。
水に流せなどふざけるな!と思うのだが、実際がどうかはわからない。恐らくこんな理由ではないだろう。瀬の字には水の流れ、渦という意味があるらしいので、気持ちが渦になって流れる…ぐるぐると思考が回るようなそういう意味では無いかと思う。
実際がどうかは、その筋が専門の人間に聞いて貰いたい。これはあくまで筆者の憶測に過ぎないのだから。
しかし、私としては「悪い気持ちは水に流せよ」なんて軽口を叩く様な意味合いでこの字が使われていたら面白いと思うのだ。
ところでこの″やるせない″という言葉を″遣る瀬無い″と表現するのは秀逸ではないと思わないだろうか。
無いというのはそのまま無、ゼロ、存在していない、という意味で捉えれば良いのだろう。
瀬は恐らく感情を、遺はその方向を表している。感情を向ける先が無いという意味の言葉を、意味を含んだ漢字を使い表現している。これがとても面白いと思うのだ。
漢字は中国から日本にやってきたんだったか。小学校で歴史を学んだ際、そんな話を聞いた気がする。
そもそも平仮名しか無かった日本に渡ってきた漢字という文字を、当時の人達はどう当てはめていったのだろう。
この″やるせない″という言葉も、やはり漢字が渡来するよりも前に存在していて、その後気持ちの表現がよりわかりやすくなる様に、言葉の意味に合う漢字を当てはめていったのだろうか。
まるでパズルの様だとは思わないか?
言葉遊び…と聞けば、文系の分野のような気もするが、こういうパズルの様な要素は理系分野なのかもしれない。しかし、そもそも理系分野の人は言葉の意味を考え、漢字の意味を考え、連想ゲームの様ない当てはめ方をする考え方は苦手なのだろうか。やはり、全て文系分野の人間が解く方が早いのだろうか。
私は、こういう形で連想から連想を繋げていき思考を続けていくのが大好きだ。
1つの事柄から浮かび上がる事をさらに考え、そこから分岐する物事について考え、それを次、次、と頭の中で想像を繋げていく。結果大きな連想となり最終的には何について考えてたのかわからなくなる程に脱線していく。
そう。今この文章の様に。
昔の人は、同じ様に言葉の意味を考えながらも、その言葉の意味がぶれない漢字を探していたのかと思うと、偉大だと思う。
よく漢字のテストで熟語の問題などが出た時に、漢字の意味で覚えると良いと教わった。
例えば遺跡なら遺っている跡、痕跡。浅瀬なら浅い水場など、熟語の意味から漢字が連想出来るのだ。昔の人はそこまで考えて漢字を当てはめたのだろう。
何故そうしたのか。連想出来ないと覚えられないとでも思ったのか。何にせよこれにより漢字のテストで救われた…というわけではないが(筆者は漢字の書き取りが苦手だった)おかげで漢字それぞれの意味を考えるという事はする様になった。
さて、ここまで「言葉の意味を漢字で表現している」事について、過去の人間達…私達のご先祖様に当たるかもしれない人々を賞賛してきたのだが、その過去の人達は今の状況を見たらどう思うだろう。
というのもだ、この世の言葉の殆どには漢字が当てはめてある。これは過去の日本人が頑張ってくれた成果であろう。しかし、最初に書いた″やるせない″を″遣る瀬無い″と書く事を初めて知ったように、世の中には漢字で書く言葉が存在しているが、平仮名で表記するのが一般的な言葉というのが確かに存在している。
例えば「いたたまれない」という言葉は、やるせないな類義語なのだが、漢字で書くと「居た堪れない」と書くらしい。これも漢字が存在するとは知らなかった。
身近な言葉でいうと「ありがとうございます」という言葉、漢字で書くと「有難う御座います」だが、漢字で書かれているものなどあまり見ない。
単語なら「いつ」と「何時」や「あらかじめ」と「予め」など、漢字で書かない訳ではないが、平仮名表記の方が多い言葉だ。
問題は何故平仮名表記なのかという事。「ありがとうございます」や単語の物に関しては、ビジネスマナー上平仮名のが失礼に当たらないという意味がある。″いつ″そうなったのかはわからないが、何のための感じなのかと思ってしまう。
この″いつ″も″何時″と表現するのはあまり見ないだろう。結局はそういう事だ。漢字はあるが、平仮名表記が主流の物は漢字の存在が放棄されている。
漢字の方からしたら自分達は存在しているのに使われず怒っていそうなものだ。これを過去の人間が見たらどう思うだろう。
漢字が渡ってきた後、自分達が苦労して言葉の意味に合わせた漢字を選び、単語を作っていったというのに、その漢字は一般的には使われず平仮名が主流となっている言葉が世の中には沢山あるのだ。
しかし、それを頭から否定はしないだろう。理由と理解が出来て、平仮名と漢字の使い分け、平仮名のが大切さ、言葉の意味を理解する為に必要な措置……理由は沢山あるのだから。
それでも、やはり自分達が選び作った漢字を使った単語を、言葉を使って貰いたいと思うのが人間という物ではないだろうか。
それこそ「やるせない気持ち」というのがピッタリだ。行き場の無い、責めるに責められない気持ち。昔の人が今の状況を見たところで、きっと同じように平仮名が主流の言葉は、平仮名表記で使うのだろうから。
そんな事を考えてしまうと、漢字がわからないからとなんでもひらがなにしてしまうのは、過去の漢字を言葉に当てはめてくれた人々に申し訳無いとすら感じてしまう。
私はとにかく漢字を書くのが苦手だ。読むだけなら出来るのだが、いざ文字に起こそうとすると出てこない。図形のようで、線が多くて、似た様な形も多い。小中高と漢字のテストはいつも赤点だった。
しかし、過去の人達に敬意を払う為にも大人になってしまったが、少しは頑張って覚えたい。覚えたいとは思っている。
何せどれだけ書き取ろうとも、覚えられないのだ。自分でも不思議だ。
自分のポンコツな頭に、遣る瀬無さを感じているので、過去の人達には努力の気持ちだかは汲み取って貰って、漢字が書けない事には目を瞑って貰いたいと思う。
#漢字と平仮名【やるせない気持ち】
「生まれ変わったら鳥になりたい」
彼女はそう言った。
私は「何故?空が飛べるから?」と聞くと
「それもあるけど、鳥って水陸空全てに対応出来るのよ。すごいじゃない」
と答えた。
彼女は今鳥になって何処かを飛んでいるのだろうか。はたまた水の上を泳いでいるのか。
***
昔から少し変わった人だった。
初めての出会いは小学5年生の頃。同じクラスになったのがキッカケだった。
彼女は学校でも噂の人物だった。良くも悪くも目立つ。そんな印象の女の子。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、いつも1本の三つ編みにして束ねていた。髪に飾りは付けず、前髪は目の上でのぱっつん。
色白で目鼻立ちがしっかりしていて、大きな瞳は薄青い色をしていて余計に映える。
華奢な体躯、スレンダーな手足。整った容姿と浮世離れの存在感を放つ、まるでお人形の様なその少女を大人達は可愛いと持て囃し、子供達は怖い気持ち悪いと距離を置いた。
子供からすると自分とは違う存在というだけで恐ろしく、除け者の対象にするには充分だった。
私が初めて同じクラスになった時も、彼女は1人席で本を読んでいた。
噂には聞いていた。同じ学年にハーフの綺麗な女の子が居ると。
学校行事などで遠目から顔を見る事はあっても、話をした事は無かった。廊下で会う事も、放課後外で会う事も無かった。
朝は一番に登校し、帰りも授業が終わるとすぐ帰る。
私は朝遅刻ギリギリに登校し、帰りは友達と遊び暗くなってから帰っていた。そんな私と彼女が出会うはずは無かった。
しかし出会ってしまった。
なり出席番号順の席で隣通しになった私と彼女が打ち解けるのに、そう時間は掛からなかった。
不思議だった。彼女と自分が合う事など無いと思っていたから。私にとっての彼女は、遠くから眺める綺麗な物。ショーウィンドウに飾られた人形と同等のような存在だったから。
自分が彼女と話をする事など、まして隣に居ることなど夢にも思わなかった。それくらい私にとっての彼女は憧れであり、崇高的な存在だったのだ。
同い年の綺麗な少女。お人形の様に整った美しい容姿。それでいて飾らない服装が、当時の私には輝いて見えた。
***
彼女と仲良くなりその後中高を経て大学に進学する頃には、すっかり綺麗な大人の女性へと変わっていた。
私はそんな彼女の隣にまだ居られる事がとても嬉しかった。
彼女と長く過ごせば過ごす程彼女のことがわかり、同時に彼女の事がわからなくなった。
昔から変わった人だった。
集団行動は苦手。兎に角マイペースで、センスが人とズレていた。こういう人間が新しい物を生み出すのかもしれないと思ったりもしたが、何にでも牛乳を入れる食べ方だけはどうしても受け入れられなかった。
他人と同じ事をするのが苦手、集中して話を聞くのが苦手。授業中は常に何か別の事をしていた。私が何故授業を聞かないのかと尋ねると「他の考える事が忙しい」と答えた。
他の事をしていても授業の邪魔をしないからか、次第に教師も何も言わなくなった。勉強は学年でも上位に入る秀才だった。
その代わりなのか運動は全く出来ず、体育の評価だけはいつも酷かった。よく転び、よくぶつかるので、怪我の絶えない子供だった。大人になてもこれは変わらなかった。
着飾らない理由はオシャレがわからないからだった。毎日同じ髪型に似た様な黒い服を着ていたのもそれが理由だったらしい。「お母さんが選んでくれないの?」と尋ねたら「お母さんもお父さんも居ないから」と返ってきた。年配の祖父母と3人暮らしなのだと、その時初めて知った。
「中高は制服があるから楽だったのに」
そう文句を言う彼女に私が服を選んだ。大人になっても人形の様に美しい彼女を、リアル着せ替え人形だと思いながら私は彼女に着て欲しい服をたくさん選んだ。彼女には何を着せても似合うので私は楽しかった。彼女は「似合うの感覚はよくわからないけど、この服は可愛いと思うわ」と答えてくれた。
私はそれだけで満足だった。
***
それは大学2年生の秋だった。
来年からは就活が忙しくなるが、合間を見て旅行に行きたいねと話をしていた時のこと。
彼女がふと「生まれ変わったら何になりたい?」と聞いてきた。
「唐突だね」と答える私に「人生において唐突に始まらない物などないのよ」と返す彼女は、やはり変わっていて文学的な思考の彼女の将来が私は楽しみだった。
何故なら、彼女の書き溜めた小説はどれも面白くお世辞抜きで今すぐにでも作家になれそうな実力があったから。
しかし、彼女はその原稿をただ溜める事しかしなかった。「その時が来たら本になるわ」とだけ言い、封筒に入れて保管していた。
生まれ変わったら何になりたいかという質問に「人間」と答えるのは野暮だろうか。私はこの質問が苦手だ。生まれ変わった先など自分では無くなるのだからどうでも良いというのが本音だ。それをありのまま彼女に伝えると「貴女らしいわ」と返っ惹かれたのよ」
その言葉に、私は思わず照れてしまう。私も彼女のそういう飾らない言葉を紡いでくれる所に惹かれたのだと、言えたら良かった。
「私は生まれ変わったら鳥になりたいの」
「鳥?」
「そうよ、鳥。鳥と一口に言っても色々あるけれど、私は渡り鳥になりたい。季節と共に国を縦断するのよ。きっととてつもなく大変な旅路だと思うわ。だけど、その土地それぞれの空気を味わえて、世界を見られるって素敵だと思わない?」
私からすると、そんな考えを持つ彼女自身が素敵だと思うのだが、彼女は自分自身を魅力的だと思わないので、何を言っても響かなかった。
「鳥ってね、すごいのよ。水陸空全てに対応しているの。空も飛べて、水の中も泳げて、陸も歩ける。すごい事よ、これは。渡り鳥なんかはこれが顕著に現れている。だから、私は鳥になりたいの。いえ…なるのわ。生まれ変わって鳥になるわ」
なら本当にそうなってしまいそうな気がした。
「素敵だね」と私が言うと「そうでしょう?」と言って微笑んだ。
「生まれ変わったら、貴女に会いに行くわ。必ず。約束する」
そう言って彼女は小指を立てる。私は彼女の小指に自分の小指を絡めた。
「私は…もうあと数年も生きないわ」
「何故そんな事言うの?」
「わかるのよ。だけど、渡り鳥になって毎年貴女の元へ会いに行く。だから、忘れないでね。私の事。私が貴女をどれだけ大事に想っているかって事」
彼女が言うと冗談も本気に聞こえてくる。いや、彼女は冗談など言わないのだ。いつだって本気で、本当の事しか言わない。だから、きっと彼女は本当に数年後にこの世には居ないし、渡り鳥になって私の元へと来てくれるのだろう。
馬鹿げた話だと思われるかもしれないが、本当にそうなのだ。
私はその日彼女と指切りをした。生まれ変わった彼女と再会する事を。
***
約束から3年後…卒業して1年足らずで、彼女はこの世を去った。
彼女を育ててくれた祖父母は既に他界、身内の居ない彼女の代わりに私が葬儀から埋葬まで全てを行った。
生前彼女から託されていた事だ。いつの間に預けていたのか、弁護士に託した遺言書まであり、私の手元には彼女の残した財産の全てが移った。
財産と言っても金銭いう意味では殆ど残っていない。彼女の葬儀と埋葬代、学費の為に借りていた奨学金の返済等々、彼女に関わる金銭関連は彼女の貯金で全て賄われた。それだけの額を貯めていたのだ。やはり彼女は自分の死期を悟っていたのかもしれない。
死因は事故死とされている。自殺が事故か判断できかねぬ状況だった為だ。しかし、自殺と断定する手掛かりも遺書などの証拠も無かった為、事故として処理された。
真相は彼女だけが知っている。
彼女の遺言に則り、私は彼女の死後彼女が書いた全ての小説を持って出版社へと向かった。
やはり私の目に狂いはなく、本となり出版され人気を博している。全部を一気に書籍化では無く、1本ずつ出版していくので暫くは彼女の本が書店に並び続けるだろう。
そして人々は渇望し嘆く筈だ。これだけ面白い作品を世に放っているのに、新しい作品はもう生まれないという事実に。
何故なら私がその1人だからだ。
***
彼女の死後、私はこの自伝を書き連ねている。
いつか彼女の書き溜めた小説が全て出版し終わった際の留め本として出版予定だ。それも彼女の遺言である。
「貴女の言葉で私を記して」
遺言書の文末にそう書いてあった。それだけで、彼女が何を求めているのか、私にはわかった。それ程私は彼女と深い仲になれたのだ。
憧れのショーウィンドウに飾られた綺麗なお人形の様な存在だった彼女は、いつの間にか私の横で笑うたった一人の大事な親友となり、渡り鳥になって消えた。
私は彼女が好きだった。
それが親愛なのか友愛なのか恋愛的な意味を孕むのか。最早確かめる術も無い。
今年も渡り鳥がやってくる。
また彼女が会いにきてくれる。
#渡り鳥【鳥のように】
天気予報を見て天気の予測が出来るように
君の機嫌も事前にわかれば良いのに
急に泣いて 笑って 怒って
言葉が無ければわからないよ
君の伝えたい事がわからないから
僕は君の顔色を伺いながら出来る事をやってみる
だけど上手く伝わらず
空回りばかりの僕を
君は見捨てずに手を差し伸べてくれる
僕がもっと君の事をわかってあげられたらと
いつも思うよ
ごめんね
何にも上手く出来なくて
君の求める物を
僕は与えてあげられなくて
こんな時貴女が居たらと
いつも思うよ
それはもう叶わない事だけど
貴女の力を借りたいんだ
きっと空の上から
僕のダメっぷりを眺めてるね
笑っていると良いな
心配はさせたく無いんだ
君の機嫌は今日もわからない
外はこんなにも晴れているのに
君はずっと泣いていて
そうかと思えば笑いだす
君の事がわからないよ
だけど君の事をわかりたいと思っている
わからない君の事を
僕は愛しているから
可愛い可愛い僕らの天使
まだまだ頼りなくて
わからない事ばかりの僕だけど
君の為に立派なパパになるよ
わからない事が
君の魅力だよ
#僕の天使 【空模様】