誰かしら?
扉の鍵、閉まってなかったかしら、まあいいわ。だって是非とも誰かに見てもらいたかったから!
この子は何かって? いい質問ね、これは「ここではないどこか」への扉をこじ開ける装置よ。これさえあればどこにだって行ける、おとぎの国にも、伝承の土地にも、あの世にだって!
あら、眉唾って顔してる? みんなそう、アタシのことお友達だって言ってくれたやつだって、アタシのこと頭がおかしいって決めつけて、病院に行こうって手を引いて。
嫌よ、絶対に嫌! この子を置いてなんていけない、やっとここまで辿りついたんだから。
他の世界の扉なんていくらでも見えてるのに、アタシの手では開くことはできない。向こう側に消えたあいつを追いかけることもできないのに、扉から漏れ出てくるものがうるさくて、まともに前も見えなくて、あんたの後ろにいるやつと目を合わせたら絶対にアタシがアタシでいられなくなる。
嫌、嫌よ、アタシはおかしくない、おかしいのは何にも気づいてないそっちじゃない、あんただってそうでしょ。
疑ってない? もっと聞かせて欲しい?
――アタシの力が、必要?
どういうことか、詳しく、聞かせてほしいのだけど。
その前に、えっと……、あなた、誰だったかしら?
20250302 「誰かしら?」
ここではないどこか。此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
そういうものを、僕らは十把一絡げに『異界』と呼ぶ。
一般的には夢物語とされているそれは、『異界』の影響を監視する家系に生まれついた僕にとっては極めて身近なものだ。
ただ、『こちら側』から積極的に『異界』に干渉するすべは、それこそこの国の歴史が記された頃から存在するとされる本家ですら持ち得ないとされていた。
だが、限定的にではあるが積極的な『異界』への渡航を可能とした研究者のチームが現れた。
彼らが正しく『異界』へのアプローチを深めていくならよし。しかし『異界』の事物を用いて『こちら側』に混乱をもたらすならば――。
かくして僕は「監査官」としてここにいる。
とはいえ、彼らはいたって真面目な研究者であり、また自らの立場もよくよく理解しているように見えている。今のところは。
だから僕は今日も、まだ見ぬ『異界』への第一歩――僕らの歴史の中でも稀なる異界研究の芽吹きを彼らと共に見つめているのだ。
20250301 「芽吹きのとき」
僕の左目は契約の証。
一握りの魔法の引き替えに、僕の片方の視界を大切なあなたに。
そうして交換した左目は、その人が僕の前からいなくなってから光を映すこともなければ、魔法の気配もすっかりなくなってしまった。
それでも僕にとっては命より大事なもので、いなくなってしまったその人の存在証明で、ただ、今はもうそれだけだと思っていた、けれど。
そうではないのだ、と彼は言う。
「あんたのその目が、今もなお色づいているってことは――」
まだ、僕の大切なひとは、本当の意味でいなくなったわけではない。魔法はまだここにある。魔法の使い手もまた然り。
ここからどれだけ手を延ばしても届かない、遥か遠くのことであったとしても、それは「無い」ということを意味しない。
その人はどこかにいるのだ。今も、この無数の世界のどこかに。
彼はきっと正しくて、だから、僕は前を向くことに決めた。
いくつもの世界を渡り、今の僕に与えられた「役割」を果たしながら、
あの日の温もりを、追いかけている。
20250228 「あの日の温もり」
かわいい服だな、よく似合ってる、自分で選んだのか?
とりあえず片っ端から言葉を並べてみるが、そいつは不満げな顔を隠しもしない。
俺は何も脳内当てゲームがしたいわけじゃないんだ、思わず出かけた舌打ちを飲み込んで、「ふくれっ面だな」と言うと、そいつが言葉通りに頬を膨らませて言う。
「お父さんはわかってません」
「何が?」
「あたしを褒めてほしいんです」
……なるほど?
そりゃあ「女心がわかってない」と、こいつの母親――つまり俺の元嫁に散々こき下ろしてくるだけはある。
だが、きちんと自分の言葉で聞きたい言葉を言ってくれるだけ、こいつの方がまだマシか。
「君は服よりもかわいいよ」
「とってつけたお世辞はいらないです」
「君がかわいいのは当然のことすぎて、思い至らなかっただけだ」
と、言えば、そいつは顔を真っ赤にして俺を見上げてくる。
けど、まあ、これはほんとに世辞じゃなくて、本心だ。あまりにも当たり前のことは、まず、言葉にしようなんて思わないだろ?
20250227 「cute!」
すり切れたノートの表紙を指でなぞる。
彼がここを去ってからも、彼の記録は残り続ける。異界潜航サンプルとして、数多の異界を渡り歩き、その目と耳で捉えた『異界』の記録は我々のデータベースにあますとこなく収められている。
ただ、「彼自身を表す記録」は驚くほど少ない。
それこそ『潜航』の中で漏らした彼自身の声だとか、彼が起こした行動の結果だとか、そういう形で残されるものはあっても、それは全体の記録の中でもごくわずか、何なら『異界』の情報としてはノイズともいえる。
それでも――。
ノートの表紙をめくる。少しだけ傾いた、角のはっきりとした文字。それは我々が「X」と呼んでいた彼の手による、彼自身の記録。
異界研究の記録としては別段必要とはいえない、しかし、日々私の中では薄れゆく、けれどそこに確かに存在していた彼の気配を確かめるように。
私は、ひとつひとつ、彼の文字を追う。
20250226 「記録」