平べったい皿のような荒地に、一輪の花が咲いていた。
僕はそれを見ると、その花弁について考えた。花も葉の変態系と最初に唱えたのはゲーテで、その証明は200年越しにされることになった。物質の最小単位を唱えたのは2000年前ものギリシャの哲学者だった。結局のところ、真理に衰えはないし、人の知能は時間性とは別のところにあるということだ。
誰しも一度は「魔法があれば」と考えたことがあるだろう。手に負えない苦境、実現困難な夢想、純然なファンタジーへの憧れ。理由は多様にあれど、結局のところは現状変革への強い欲求である。かく言う私も、学生の頃は他の追随を許さない程に魔法への妄想に耽っていた。魔法の妄想と言っても、一様では無く、色々なやり方がある。私は主に1.魔法が当たり前にある世界への転生2.現実世界に魔法が普及する展開の2.方向で妄想を試みていた。さらには、どんな魔法があり、それがどんな原理で動くものかなんてのも事細かに考えていたものである。今思えば、その論理は若人の柔肌のように脆いものなのだが、当時の私はその欠陥だらけの世界に身を置けていたのである。学校を出て、社会に入り、今ではそんな気力すらも湧いてこない。頭を捻って出てくるのは、上司への呪詛ぐらいなものだ。20代を過ぎていくと、我々はタダでは歳を跨げなくなっていき、毎年何かしらを時間に捧げないといけないんだ。そう考えると、若さというのはそれだけで魔法のようなものだったのかもしれない。
「ねえ、あれって虹じゃない?」と彼女は指をさしながら言った。
「そうだね、恐らく虹だ」と僕は言った。
遠くにうっすらと、7色の湾曲した空気の柱がかかっていた。
「虹ってあんなに綺麗だけど、手で掴んだり、よじ登ったりってできないのよね」
「そうだね。あれは空気中に漂う水の粒に光が屈折したり、反射したりしてるだけだからね」
「なんだか、不思議よね。私たちは小さい頃から、虹に関してはかなり具体的なイメージを持たされてきた。けど、その実情はただの光の手違いだなんて」
「虹だけじゃないさ。この世界の光と色の関係は大体があやふやで、漠然としているんだ。でも、だからこそ自然で作り上げられる色彩には理屈があって、論理がある。それって素敵じゃないか?」
「あなたってわりにロマンチストよね」
「僕がって言うよりは、この世界がロマンに溢れているんだよ」
息を吸うと夜の冷たい空気が肺を満たす。空を見上げると、目の端に映り込む建物の光と星の光が謙遜しあってまじわっている。
私の体にはもう色々なしがらみは纏わりついていない。あぁ、ラーメン屋の看板の明かりが心地いい。もう私は好きな時間にここでラーメンを食べられるのだ。そんな素敵なことってない。暗く怖かった路地裏は、何だか冒険の予見を示しているように感じるし、やかましいキャッチは遊園地の案内人のように見えてくる。
あまりの高揚感に手と足を同時に出して歩いてしまっていた。しかし、それだってもう誰かに口うるさく文句を言われることは無い。私は右手と右足を仲良くセットで歩くことだって出来るんだ。それってとても自由だとは思わないかい、少年少女よ。
繁華街を歩いていると、光り輝く夜の街の中でも更にひときわ光っている建物があった。試しに入ってみると、そこは何かの劇場だった。
入口近くのロビーにひとまず腰をかけ、途中で買ったストロングゼロをひと口。禁煙の貼り紙を目の前に、罪悪感に駆られながらもピースをひと吸い。頭の細胞全体が一斉休暇を取ったみたいに、そこには思考というものが介在していなかった。たまにはこういうのだって必要なんだ。特に今日みたいな日は全世界が私を労い、称えるべきなんだよ。すごく気分がいい、これが多幸感か。人生は案外捨てたものじゃないのかもしれないな。
私は「周りとの差別化」というのをテーマにして生きている。差別化と言っても、そんな大層な事はしないし、出来ないけれど、ほんの少しだけ周りとは違うことをする。例えば、世間で赤紫色のアイシャドウが流行ったら、私はブルーのアイシャドウを使う。周りが厚底のスニーカーを履くのなら、私は潰れたパンケーキのようなスニーカーを履く。ロックが流行ったのなら、私はクラシックを意識的に聞く。そうやって、他人と自分との境界線を強く持つことは、自分がこの世界にいる意義みたいなのを形式的に示すためである。私はあまり器用では無いから、アイデンティティというのを外見的な形で作り上げる必要がある。伝統工芸品の見出しをキャッチーな文句にすり替えるするみたいに。それが私の信念であり、生き方なのだ。