君の背中は品のいい滑り台のように、白くツルツルしていて、滑らかな曲線を描いていた。僕はそれを眺めるのが好きだった。君はいつも不思議がっていたけど、その困惑した顔がよりその白い背中を引き立たせていた。
彼女も美しい女性だった。僕が今まで付き合ってきた女性は誰もが、自分を代表とさせる権威的な部位を持っていた。ある人は手首だったし、ある人は首筋だった。そして、彼女は背中だった。そういった類まれなる美しさというのは、感心や感動を通り越して、畏怖の念まで抱くこともある。それは、人が作り出す、ある意味で人工的で、同時に自然的な美しさなのである。
僕にはお気に入りの崖があった。家から自転車で30分ほどする所に密林があり、そこの小径を10分ほど歩いていくと、海を一望できる開けた崖にでれた。それは海という手をつけられない程巨大な力を町から守っているみたいに、海と町とを力強く隔てていた。
僕は近くにある小さな展望台から、自前の双眼鏡で海の向こう側を見るのが好きだった。レンズ越しの世界では海と空の2つの単一的な概念のみで成り立っていて、そこは、僕の居る複雑で無駄な世界とは全く違うものだった。
僕には誰にも言っていない秘密があるんだ。生きてて今まで、一度も誰かに相談したり、共感しようとしたりはしてこなかった。なぜなら、それはあまりにもおかしな話だからである。どうせ、理解されないだろうし、もしかしたらバカにされるかもしれない。それなら、自分のうちに秘めておいた方がずっと楽だ。
それで、その秘密って言うのは、僕は人混みの中でつまずくと恥ずかしいと感じてしまうというところだ。こんな事で恥ずかしいと感じるのは、この世界できっと僕ぐらいだろう。だって、僕は生きていて躓いた後に恥ずかしそうな顔をする人を見た事がない。みんな、平然と何事も無かったかのように歩き始める。
どうして、僕だけがこんなことで恥ずかしいという感情を抱かないといけないんだろう。どうして、他の人たちはあんなにも平然とした顔が出来るのだろう。まだ、見たことは無いが、きっと躓いた後の僕の顔はそれは酷く恥ずかしそうな顔をしているに違いない。
崖から見下ろすと、そこには広大な海と登りかけの朝日があった。波が岩に当たる音だけがやけに響く。まるで、それ以外の音という音が取り除かれたみたいに、空気を振動させている。
僕は深呼吸をする。冷たい空気を肺にいっぱいにいれ、その状態を少し維持する。そして、味わうように長く息を吐く。これで、僕もこの場所に認められた。
波の音と僕の呼吸する音、そして時折聞こえてくる鳥のさえずり。日の周りの空がやけに赤くなった。朝日と地平線は円と接線のように最後までお互いに触れ合っていた。朝日は責任をもって、時間を前に進めている。世界はそれを辛抱強く待っている。
「腹を割って話そうぜ。もう、ここまで来ちまったんだ。今さら気にすることなんて、俺らがあとどのぐらい運命に縋りつけるかって点だけだ」
「確かにそうかもしれない。こんな状況だ。もう何を取り繕ったって、何も残らない。でも、何処か俺の心の奥底で、完全にさらけ出せない部分があるんだ。それを見せてしまうと、君を幻滅させるかもしれない。あるいは、その自覚は僕にとって危険な類いのものかもしれない」
「たとえお前が何を出したって幻滅なんかしないぜ?蛇の肝でも、カバの糞でも、なんだって出せやいいさ。確かに、そういうものに向き合うのは多少の傷は受けるかもしれない。でも、そのまんまにしたって、それはそれで危ないものに変わりない。むしろ、それは暗闇の中でより手をつけられないものへと大きくなっていくものだ。ちょうどいい機会なんだ。こんな状況滅多にないぜ。いいから、さらけ出しちまえ」
「そうか、これは僕の中で大きくなっているのか。そうかもしれないな。分かったよ。腹を割って話そう」
「そうこなくっちゃな。それで、お前の中にあるものはなんなんだ?」
「実は……なんだ」
「これは、想像以上のものだぜ。でも、これでお前はそれを吐き出せた。これ以上、そいつが悪さをすることは無いさ。しかし、扱っているものが少々微妙だな。それが力を蓄えないとしても、これで綺麗さっぱり無くなりはしないだろう。これは難しい問題だ」
「そうだろ?確かに吐き出してスッキリはしたさ。しかし、それだけだ。事態は何も変わっていない。入れ歯の虫歯が治ったようなものだ。依然、僕自身が求めている実感は手の届かないところにある」
「事態は変わってないかもしれないが、俺らの今立たされている状況から見れば、俺ら個人の枝葉末節の問題なんて気にする必要はないさ。まあ、聞いておいてなんだがな。気楽に行こうぜ」
「いつもこうだ。僕の開示にはなんの意味があったのか、教えてくれよ」
「スッキリしただろ?男ってのはスッキリしないと生きていけない生き物なんだぜ」
「やれやれ」