亡くなった姉の家に遺物の整理や部屋の片付けをしに向かった。姉は都内の駅近くにあるアパートに住んでおり、家からの徒歩数分の美容院で働いていた。昔から、色んな人の髪型に興味を抱き、よく僕をマネキン代わりにして色々な髪型を試していた。
アパートは密集した住宅街の隙間にあり、3階建ての細長い形をしていた。姉の部屋は2階にあり、壁に同化してるみたいにドアはくぼんでいた。
中に入ると、ムッとした独特な香りが押し寄せた。散らかった服と片付けられていない容器、やけに強いディフューザーが混じった匂いだった。少しすると、外気と混じり薄くなっていった。
早速部屋の整理を行い、必要そうなものは用意していた袋に入れていった。服を手に取るたびに、その服を来ている姉の姿を想像した。姉が上京してから、一度も会っていなかったため、僕の想像する姉は実際より5.6歳若かった。
部屋は1LDKだったため、そこまで時間はかからなかった。
一段落して、テーブルに座り持参した水を飲んだ。泥水を薄めたような味だった。こうやって、部屋を見渡してみると先程まであった生活感は綺麗さっぱり無くなっていた。どこか僕は彼女の存在の足跡を消しているかのような、そんな場違いなことをしているのでは無いかという一抹の不安に駆られた。
休憩を終えると、洋室のデスク周りに取り掛かった。ヘアカタログ雑誌があらゆる場所に置かれ、挟まれていた。それらを1枚ずつ丁寧に引っ張りだしていると、その間からひとつの封筒が床に落ちた。
拾って見てみると、「5年後の私へ」と書かれていた。本当は今開いてしまうのは良くないが、その時には正常な判断は出来なかった。
封筒を開けると、丸みを帯びた幼い文字で埋め尽くされた便箋が1枚入っていた。恐らく、中学三年生の頃に授業で書いた成人の自分への手紙だろう。
「5年後の私へ
なんか、授業で書けって言われたから書くけど、あんま書くことないかも。まあでも、一応みんなは夢とか書いてるらしいし、私も夢を書くね。
改まって書くことでもないけど、私は美容師になりたい。いや、なる。なれるだけの努力は誰よりもしてる。そして、誰よりも好きな自信がある。だから、仮にこれを読んでいる時に美容師の専門学校とか、もしかしたら美容師になってたりしたら、今の私に感謝して欲しい。
私がんばってるから。
もしかしたら、美容師なんて興味がなくなったりして、全く違うことをしてるかもしれないけど、きっと私なら違う何かにも頑張ってるはず。そう信じてる。頑張ってなかったら、今の私を、5年前の私を思い出してね。何かを目指して努力するって、辛いけど結構楽しいものだよ。
追伸 よく人の話を聞いてなくて怒られるから、そこが治ってると嬉しいかも。
」
それを読み終えると、硬く白い紙は灰色の斑を増やしていった。頑張っていたんだよ、彼女は。本当によくやってたんだ。終わりがあるのなら、初めからそれを教えてやってくれよ。どうしてこんなにも唐突なんだ。
溢れる涙は悲しみを知らせる楽器のように、音を鳴らして紙や床に落ちていった。しんと静まった部屋は、その音だけが不確かに響いていた。
「バイバイ」と彼女は言った。
「バイバイ」と僕は繰り返した。
彼女は背を向けて、バスの扉に乗り込んでいった。僕はその姿を朧気に眺めていた。まるで、違う世界へ行って、もう一生帰ってこないような、そんな気がした。そしてそれは、実際にそうだった。
バスが行ってしまうのを見送ると、あてもなく道を低回した。倦まず弛まず骨材を結合させるアスファルトの表面を削るように歩いた。
これで終わりなんだ。僕と彼女との蜿蜿と続いた日々も、あの一言でスパンと切れてしまったのだ。ああ、一体どこを間違えたのだろう。どこから、間違ってしまっていたのだろう。
ひとしきり悩んでも、浮かぶものはなかった。心当たりがあると思えば、あらゆることが予兆だったようにも思えるし、ないと思えば、僕たちはそれなりに上手くやってきてた気がした。そんな漠然とした理解しかしていないから、別れてしまったという考え方もできるかもしれない。
右手をズボンのポケットに入れて、中身をまさぐった。飴かなにかが欲しかったが、入っているのはパスモの入ったカードケースだけだった。視線を上げてみると、そこには空全体の重しとしての役割を果たそうとする雲に満ちていた。もう15.00だと言うのに、僕は初めて今日の天気を知覚した。
悵然たる思いを抱えつつ、頭の中はあらゆる思考で埋め尽くされていた。どこか近くの店に入って、思考を外に向けようと考えた。
道を歩いて、初めに目に付いた料理屋に入った。店内は落ち着いた雰囲気があり、奥には和室のようなものが見えた。店員は和食店でよく見るような法被式の白衣を来ていた。小さな個室に案内され、そこで初めてここが懐石料理を出す店だと気づいた。
この失意の中に食べるには、あまりにも高尚だったが、来てしまったからには仕方ない。こうなれば、一口ごとに口内の全細胞を総動員して食べてやろうと思った。
初めに一汁三菜を食し、次に強肴、箸洗、香の物と少量の食事をいつもの数倍多く咀嚼して食した。量自体はそこまで多くはなかったが、その1食ずつの間の時間で腹はある程度溜まっていった。
満足して店を出ると、空から雲の重しを突き破るような陽光が差し込んだ。光の筋は地上のあちこちに降り立ち、それは幻想的な景色だった。快晴の伸び伸びとした光よりもずっと魅力的だった。
20歳を迎えた僕はどこにも発散できないような閉塞感を感じていた。それ以前から予感のようなものはあったが、それは20歳に近づくにつれ徐々に輪郭を帯びて迫ってきた。特に日常に不満があったわけでは無い。夏の砂場で水をまくような意味の無い講義を受け、誰の頭を使っているのか分からないようなレポートを毎週書くだけの日々だ。
20歳になるというのは、社会の中で新たな印を付与されたような気分だった。その年齢は大人の記号として植え付けられているのだ。
僕は、学生という身分と20歳としての自分とを上手く擦り合わせることが出来なかった。同じ極の磁石を必死に擦り寄せているかのように、それぞれが違った方向を譲らない。それでも、その甘えと責任を上手く使い分けようと努力した。
20歳を迎えて数ヶ月が経つと、渦巻いていた閉塞感は一旦の落ち着きが見えた。しかし、それは世界に馴染んだというよりは、体の奥底にしまい込んだというだけで、いつそれが再び現れるかは分からなかった。自分でも、そんな見かけの安定は一時的なものに過ぎないと理解していた。そこで僕は、内的思索を強制的に遮断するために旅に出ようと思った。自分の凝り固まった頭を内側からひっくり返すような体験が必要だと思った。
行き先はとにかく広大なところが良かった。海でも、砂丘でも、山でも、あるいは宇宙でも。とにかく、自然に対しての自分の存在が、如何に無意味であるかを痛感したかった。僕は砂丘を選び、手っ取り早く鳥取砂丘に行くことにした。
アルバイトをしてなかったため、なるべく節約しなかったが、深夜バスで何時間もかけて行きたいとも思わなかった。新幹線で姫路まで行き、そこから電車で1時間ほど揺られ鳥取駅に着いた。驚く程に電車は空いていて、どこか別の場所に連れ去られるのではないかと恐怖した。
駅も東京のそれと比べると空いていたが、正しい場所にいると安心出来る程には賑わっていた。
北口に行き、鳥取砂丘行きの路線バスに乗り込んだ。他の乗客に僕のような若い人は居なかった。年寄りや中国かインドネシアかの観光客が多かった。20分ほどうたた寝をすると、予想していたより早く到着した。
バスから降り、外の空気を存分に取り込み、凝り固まった肩や首を十分にほぐした。太陽は出し惜しみなくその光を降り注ぎ、風はこちらの気を伺うかのように程よい強さだった。
近くの看板を頼りに歩いていくと、そこには1面の砂山と、奥には濃い青の海が広がっていた。砂丘はトリックアートのように急な傾斜があちこちにあり、そこを登る人達の姿はどこか現実離れしていた。海は太陽の光を全面に受け止めて、波に連なる独自のリズムで輝いていた。
僕は、辿り着いたんだという達成感とこれから待っている未知への期待で胸がいっぱいだった。体の奥底にしまい込まれた感情もその輝きには抵抗できず、外側に引っ張りだされているような感覚があった。体が内側から裏返されているような感覚だ。
衝動的にここまで来たものの、ある意味でここは1つのポイントになりうるかもしれない。20歳という新しい自分とこれからの未知に溢れた人生への。
その時の僕は、世界の大半のことは努力で何とかできると考えていた。魚を地上にあげておけば、いつかは肺呼吸を会得できると本気で思っていたんだ。自分が出来ないのは、適切な方法で適切な量の努力をしていないからで、それらをすれば世界のあらゆることは克服できると思った。
僕は高校1年生の5月に東京大学を目指し始めた。今に思えば、本当に理解に苦しむが、当時は3年間死ぬ気で努力すれば本気で行けると思っていた。そんな高い目標を顔に書き記し、毎朝鏡を見ては、自分を奮い立たたせ、困難に立ち向かう自分を愛していた。しかし、当然そんな不釣り合いな目標では長続きはしない。餌付けの糸紐が短くピンと張っていれば、いずれは生物は気づいてしまう。最初は誤魔化せるが、歩けば歩くほど壁の全貌が見えてくる。
高校1年生というのは、2年とも3年とも違う。それは、高校生活というあらゆる媒体の理想の城として認知をすり込まれた楽園への興奮に満ちた1年である。新しい学校、部活、アルバイトと大半の生徒にとっては素晴らしい感動に包まれる年だ。そして、それを横目に勉強するというのは、2年3年も勉強をし続ける以外に道がないということだ。途中で辞めるなんかしてしまったら、失ったサンクコストに正気を保てなくなるだろう。つまり、1年から受験勉強を始めた瞬間、その報酬は大学の合格以外ないということだ。
1年が終わると、自分の理想と現実、抱いていた信念と世界の仕組みのギャップに打ちひしがれた。ここまで捧げた結果がこれなのかと絶望したさ。しかし、もちろんもう止まれない。やり続けるしか無かった。
2年に上がると、勉強する時間が極端に減った。と言うより、出来なくなってしまっのだ。どれだけ、長時間やろうとしても、1年生の頃のようにはいかず、常に学習という行為に不快感が押し寄せるようになった。勉強をしている時の時間の進み方が明らかに遅くなった。1年生の3時間は2年生での1時間というほどに、許容できる勉強時間がガクッと減ってしまった。勉強量は格段に落ちたが、もちろん、心は常に勉強をしないといけないという観念に駆られていた。勉強を止めると、その後には勉強をやらなかったことに対しての罪悪感が生まれ、明日こそはこの不快感はどうにか乗り越えようと心に決めた。心理学、神経科学、脳科学の本を読み漁り、この得体の知らない不快感を突き止めようとしたが、何を試そうとそれが消えることは無かった。
そんな、故障した進むことだけを目的としたバスには誰も乗りたがらないだろう。初めには応援していた周りの人も、次第に減っていった。
そんなこんなで、3年が来て、周りも本格的に受験に腰を入れ始めた。僕は、そんな周りの人を眺めながら、相変わらず子供のお小遣いのような勉強時間で済ませてしまっていた。ここから、どうにか変えればまだチャンスはあると自分を鼓舞し続けたが、結局、受験の直前までこの勉強への嫌悪が消えることは無かった。自分がどうして高校生活を勉強に捧げたのかも、どうして勉強が出来なくなったのかも、そもそも現実的な学力がどの程度かもよく分からなくなってしまった。
受験直前になって、身の程にあった大学を適当に選び、過去問も解かず試験に臨んだ。誇り高い信念と身の程知らずの目標で始まった高校生活の末がこんな体たらくで終わるとは誰が予想できただろうか。誰か心優しい人がいれば、高校1年生の僕にこの結末を教えて欲しいな。まあ、君はきっと、そんな未来も努力で変えられるなんて言うんだろうが。
狭い部屋で僕と彼女はベットを背に床に座り込んでいた。晩冬の寒い日だった。誰かが冷蔵庫に入れて置いたのかと疑うほどに床は冷たかった。
ベッドの上の窓から刺すような西日が明かりのない部屋を照らした。小学校で解く図形の問題のような綺麗な日向と日陰の境界線ができた。僕は日陰にいて、彼女は日向にいた。
「夏だと鬱陶しいと感じるけれど、冬だと西日も悪くないわ」と彼女は言った。
「登った朝日だけでは足りないの」
「確かにそうかもしれない」と僕は言った。
「冬は太陽光の入る角度が低いからね、健康に必要な日光浴の時間も夏と比べて長いんだ」
部屋のホコリは陽光を反射させ、幻想的な砂時計のように緩やかに落ちていった。
「やっぱりそうなのね。なら、あなたもこっちに来るといいわ。日光に競合性は無いの、好きなだけ浴びるべきだわ」彼女は自分のいる場所を指しながらそう言った。
「いや、いいよ。僕は日陰に慣れてるんだ。仮に、人生で誰もが同じ太陽を共有していたのだとしたら、僕は常にそこには入れなかった側の人間だったからね」と僕は言った。
「そうかしら。あなたが覚えていないだけで、陽の光は誰にでも回ってくるものよ。いい?そういうのって、日が当たってる本人は案外気づかないのものなの」と彼女はなだめるように言った。
確かにそうなのかもしれない。僕にだって、光が差した瞬間はあったのかもしれない。でも、仮にそうだとしてもそれは瞬く間のことだろ。そんな刹那の光なんかでは長く鍛錬された闇を癒すことは出来ないのだ。あくまでこれは不可逆の暗さなんだ。