浜辺 渚

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その時の僕は、世界の大半のことは努力で何とかできると考えていた。魚を地上にあげておけば、いつかは肺呼吸を会得できると本気で思っていたんだ。自分が出来ないのは、適切な方法で適切な量の努力をしていないからで、それらをすれば世界のあらゆることは克服できると思った。
僕は高校1年生の5月に東京大学を目指し始めた。今に思えば、本当に理解に苦しむが、当時は3年間死ぬ気で努力すれば本気で行けると思っていた。そんな高い目標を顔に書き記し、毎朝鏡を見ては、自分を奮い立たたせ、困難に立ち向かう自分を愛していた。しかし、当然そんな不釣り合いな目標では長続きはしない。餌付けの糸紐が短くピンと張っていれば、いずれは生物は気づいてしまう。最初は誤魔化せるが、歩けば歩くほど壁の全貌が見えてくる。
高校1年生というのは、2年とも3年とも違う。それは、高校生活というあらゆる媒体の理想の城として認知をすり込まれた楽園への興奮に満ちた1年である。新しい学校、部活、アルバイトと大半の生徒にとっては素晴らしい感動に包まれる年だ。そして、それを横目に勉強するというのは、2年3年も勉強をし続ける以外に道がないということだ。途中で辞めるなんかしてしまったら、失ったサンクコストに正気を保てなくなるだろう。つまり、1年から受験勉強を始めた瞬間、その報酬は大学の合格以外ないということだ。
1年が終わると、自分の理想と現実、抱いていた信念と世界の仕組みのギャップに打ちひしがれた。ここまで捧げた結果がこれなのかと絶望したさ。しかし、もちろんもう止まれない。やり続けるしか無かった。
2年に上がると、勉強する時間が極端に減った。と言うより、出来なくなってしまっのだ。どれだけ、長時間やろうとしても、1年生の頃のようにはいかず、常に学習という行為に不快感が押し寄せるようになった。勉強をしている時の時間の進み方が明らかに遅くなった。1年生の3時間は2年生での1時間というほどに、許容できる勉強時間がガクッと減ってしまった。勉強量は格段に落ちたが、もちろん、心は常に勉強をしないといけないという観念に駆られていた。勉強を止めると、その後には勉強をやらなかったことに対しての罪悪感が生まれ、明日こそはこの不快感はどうにか乗り越えようと心に決めた。心理学、神経科学、脳科学の本を読み漁り、この得体の知らない不快感を突き止めようとしたが、何を試そうとそれが消えることは無かった。
そんな、故障した進むことだけを目的としたバスには誰も乗りたがらないだろう。初めには応援していた周りの人も、次第に減っていった。
そんなこんなで、3年が来て、周りも本格的に受験に腰を入れ始めた。僕は、そんな周りの人を眺めながら、相変わらず子供のお小遣いのような勉強時間で済ませてしまっていた。ここから、どうにか変えればまだチャンスはあると自分を鼓舞し続けたが、結局、受験の直前までこの勉強への嫌悪が消えることは無かった。自分がどうして高校生活を勉強に捧げたのかも、どうして勉強が出来なくなったのかも、そもそも現実的な学力がどの程度かもよく分からなくなってしまった。
受験直前になって、身の程にあった大学を適当に選び、過去問も解かず試験に臨んだ。誇り高い信念と身の程知らずの目標で始まった高校生活の末がこんな体たらくで終わるとは誰が予想できただろうか。誰か心優しい人がいれば、高校1年生の僕にこの結末を教えて欲しいな。まあ、君はきっと、そんな未来も努力で変えられるなんて言うんだろうが。

1/30/2025, 2:31:44 PM