20歳を迎えた僕はどこにも発散できないような閉塞感を感じていた。それ以前から予感のようなものはあったが、それは20歳に近づくにつれ徐々に輪郭を帯びて迫ってきた。特に日常に不満があったわけでは無い。夏の砂場で水をまくような意味の無い講義を受け、誰の頭を使っているのか分からないようなレポートを毎週書くだけの日々だ。
20歳になるというのは、社会の中で新たな印を付与されたような気分だった。その年齢は大人の記号として植え付けられているのだ。
僕は、学生という身分と20歳としての自分とを上手く擦り合わせることが出来なかった。同じ極の磁石を必死に擦り寄せているかのように、それぞれが違った方向を譲らない。それでも、その甘えと責任を上手く使い分けようと努力した。
20歳を迎えて数ヶ月が経つと、渦巻いていた閉塞感は一旦の落ち着きが見えた。しかし、それは世界に馴染んだというよりは、体の奥底にしまい込んだというだけで、いつそれが再び現れるかは分からなかった。自分でも、そんな見かけの安定は一時的なものに過ぎないと理解していた。そこで僕は、内的思索を強制的に遮断するために旅に出ようと思った。自分の凝り固まった頭を内側からひっくり返すような体験が必要だと思った。
行き先はとにかく広大なところが良かった。海でも、砂丘でも、山でも、あるいは宇宙でも。とにかく、自然に対しての自分の存在が、如何に無意味であるかを痛感したかった。僕は砂丘を選び、手っ取り早く鳥取砂丘に行くことにした。
アルバイトをしてなかったため、なるべく節約しなかったが、深夜バスで何時間もかけて行きたいとも思わなかった。新幹線で姫路まで行き、そこから電車で1時間ほど揺られ鳥取駅に着いた。驚く程に電車は空いていて、どこか別の場所に連れ去られるのではないかと恐怖した。
駅も東京のそれと比べると空いていたが、正しい場所にいると安心出来る程には賑わっていた。
北口に行き、鳥取砂丘行きの路線バスに乗り込んだ。他の乗客に僕のような若い人は居なかった。年寄りや中国かインドネシアかの観光客が多かった。20分ほどうたた寝をすると、予想していたより早く到着した。
バスから降り、外の空気を存分に取り込み、凝り固まった肩や首を十分にほぐした。太陽は出し惜しみなくその光を降り注ぎ、風はこちらの気を伺うかのように程よい強さだった。
近くの看板を頼りに歩いていくと、そこには1面の砂山と、奥には濃い青の海が広がっていた。砂丘はトリックアートのように急な傾斜があちこちにあり、そこを登る人達の姿はどこか現実離れしていた。海は太陽の光を全面に受け止めて、波に連なる独自のリズムで輝いていた。
僕は、辿り着いたんだという達成感とこれから待っている未知への期待で胸がいっぱいだった。体の奥底にしまい込まれた感情もその輝きには抵抗できず、外側に引っ張りだされているような感覚があった。体が内側から裏返されているような感覚だ。
衝動的にここまで来たものの、ある意味でここは1つのポイントになりうるかもしれない。20歳という新しい自分とこれからの未知に溢れた人生への。
1/31/2025, 3:06:53 PM