イスラム教について学ぶため、市が運営している近くの図書館に足を運んだ。特にこれといった理由もなかったが、何となく調べたくなったんだ。
イスラム教についての僕の知識は、イスラム教とは唯一神アッラーに帰依する教えであり、預言者ムハンマドに啓示された言葉を編纂した啓典コーランに基づいているということくらいだ。
館内に入り、館内地図から宗教のコーナーを探した。それはちょうど、右奥の政治コーナーの横にあり、自分の背より遥か高い本棚の中でそれを探した。
世界三大宗教と言われるだけあって、探すのに時間はかからなかった。イスラム関連の本だけでも1つの棚が埋め尽くされるほど置いてあり、「イスラム教 完全攻略」と題名がついた受験対策の参考書と思われる本から、「イスラム教ってここが変」と丸いフォントで書かれた、奇を衒う本も置いてあった。
僕は一番下の列の一番端にあった「スンニ派 シーア派の変遷」と書いてあった本を手に取り、近くの椅子に座わって読んでみた。
その本によると、スンニ派とシーア派の軋轢はムハンマドの死没にまで遡り、発端はムハンマド死後の第4代のカリフ(最高指導者)であるアリーの死後に、カリフを誰にするかで意見が2つに別れたことからだった。
シーア派はシーア・アリーとも呼ばれ、血統に重きを置き、預言者であるムハンマドの従兄弟であったアリーとその子孫だけがムハンマドの後継者であると考えた。
一方で、スンニ派のスンニとはムハンマドの言行を意味し、ムハンマドが神の啓示をどのように解釈し、実践したかを正しく理解する人々がカリフを継いでいくべきだと考えた。
多くの宗教がそうであるように、異なる宗派というのは争う運命にあり、それが今日にも続いているということであった。元は純粋な言説での対立であったが、昨今では経済的な利権争いにも発展しているらしい。
対立の歴史を一から読もうとしたが、その厚さから今日1日では読み切れないと判断し、本を閉じた。きっとそこには、想像出来ないほど長い歴史があるのだろう。
「俺こう見えて彼女いたことないんだぜ」
「えー以外。スゴくかっこいいのに」
「だろ?顔はかっこいいし、内面だってそこらの男とくらべたらだいぶ良い方だぜ。男連中と話す度に思うよ、俺ならもっと優しくしてやれるのにってな」
「あなたみたいな人に彼女がいないのは女性にとっての大きな損失だわ。だって、素敵なパートナーを持つ女性が1人減ってしまっているということだもの」
「そうか?だが、俺だって彼女を意図的に作ってない訳じゃないんだぜ。マッチングアプリだとか、結婚相談所とかそういうのはあらかた試してみたさ。ただ、どうもしょうに合わなかったんだ」
「それはどうして?」
「だって俺だぜ?俺みたいなのは、普通女性から寄ってくるものだろ。どうして、俺から相手を探さないといけないのかって徐々に耐えられなくなるんだ」
「確かにそれもそうね」
「だろ?だから、俺に彼女がいない理由はどちらかというと女側の責任だぜ」
「そうかもしれないわ。1度女性をあらかた集めて反省会を開かないとね」
「そうするといい」
男は満足気に笑った。
瞳を閉じてみると、目前の世界は唐突に遮断された。
営業終了と同時に勢いよく下げられる魚屋のシャッターのように、有無を言わせないものだった。
瞳が閉じてるという状態は、視界が真っ黒になるというよりは、視野というものが根こそぎ抜き取られているというのが正しい表現だ。
僕はそれを再度確かめるために、瞳を閉じながら、瞳の先にあるものをどうにか感じようとしてみた。しかし、やはりそこには色はなく、もっと言えば、無すらなかった。それは視野というものとは前提から成り立ちが違う状態なのである。
瞳が閉じられた状態への一通りの考察を終えたら、僕はその状態でじっとしてみた。そうすると、実に色々なことが頭の中に浮かんでは消えを繰り返した。通学で隣の席に座っていた外国人の男性、驚くほど綺麗に円を書いた数学の先生、帰宅途中に見かけたハクビシン。まるで、海底のゴミが各々の浮力で上昇し、海面から顔を少し出すと、満足して再び潜っていくような感じだった。
そんな空の時間を数分楽しむと、再び瞳を開いてみた。
そこには予測通りの世界が広がっていた。遮断され、無いものとみなされていた世界だ。もしかしたら、僕が瞳を閉じている間は隠れていて、瞳を開けたのと同時に存在し始めたのかもしれない。
今視野に捉えている世界が今という時間の流れを受け入れてると思うと、少し親近感があったし、信頼も持てた。しかし、この今さえもいつかの過去になると思うと、漠然とした果てしなさを感じた。
「今まで生きてきて、女性にプレゼントをあげたことがないんだ。だから、何を選べばいいか分からなかったんだ」
「あのね。こういのって気持ちなのよ。私はあなたが悩んで選んでくれたものなら何だって嬉しいの」
「ダイヤモンドヤスリでも?」と僕は聞いてみた。
「どう悩めば、ダイヤモンドヤスリという結論にたどりつくのかしら」と彼女はため息をついて言った。
「もしかして、あなたは私へのプレゼントにダイヤモンドヤスリを選んだの?」と彼女は怪訝な顔で聞いてきた。
「いいや、違う」と僕は慌てて否定した。
肩に提げたトートバッグから、急いで包装された袋を取り出した。手のひらより少し大きく、赤いリボンで入口が包装された袋だ。
「これだよ」と僕はそれを彼女へと差し出した。
彼女は驚いた顔で、それを受け取った。
「開けていい?」
「いいよ」
彼女は器用に入口のリボンを取り、袋の中身を取り出した。
「布巾?」と片手でつまみながら、不思議そうに顔を歪めた。
「悩んだ結果、1番布巾が良いと思ったんだ。この前、布巾が足りないって言ってただろ?もちろん、香水とかそういう定番も考えてみたさ。でも、それらを考えてたら、必ずしも君が定番を支持しているとは限らないと思ったんだ。だから、風情には欠けるけど、堅実に実用的な布巾にしたんだ」僕は恥ずかしそうにそう言った。
彼女は僕の目をじっと見つめながら話を聞き、聞き終わると、僕の頭の上の何も無い空間を10秒ほど見つめて、そしてまた僕に目線を合わせた。
「確かに布巾は必要だったわ。布巾って凄くいいの、世界大戦での鋼鉄みたいに、家事では色々な使い方があるの」彼女は優しくそう言った。
「喜んでもらえて良かったよ」と僕は言った。
「とても嬉しいわ」と彼女は言った。
鬱蒼とした森の中で僕はただ1人さまよってる。
じめっとした空気で土の匂いや草の匂いが強調されている。陽の光は茂った木の葉で遮られ、時々葉の隙間からご利益の高い光の柱が顔を出す。1歩ずつ歩く度に、何かしらの木の枝や種類の分からない葉っぱを踏み潰している。彼ら植物が生きているか、死んでいるかというのはとても判断が難しいため、今回は見逃して欲しいと思う。季節は分からないが、虫が見当たらないのを考えると、秋か冬といったところだろう。もちろん、秋や冬にも虫はいるが、春や夏と比べるとどうしても陰気なものが多い。そういうのは適材適所なんだ。その代わりに、鳥の鳴き声が何重にも重なって聞こえる。まず、小鳥が1.2羽鳴く。それにつられて、何十匹が鳴きあう。その後少しすると、大きめの鳥(見たところヒヨドリかな)がピシャリと鳴いて、他の鳥は沈黙する。そんなやり取りを永遠と繰り返してる。
道は舗装こそされてないが、人間か他の生き物かの通り道として、気持ち程度に地面が抉られている。赤茶色の土だ。よく見ないと気づけないが、どうにか他の地面と比較してそれを探していく。途中で途絶えていることもあるが、そういう時は焦らず、1度立ち止まる。その周辺にテントを立てて、何日か泊まる。そうすると、いつの間にか道が出来ている。元々そこにはあったかのようで、前後の繋がりはとても自然だ。この森から一刻も早く抜け出すことが一応の目標だが、道がないのだから仕方ない。もしかしたら最初から道はあって、ただ単に僕には見えなかっただけかもしれない。だとしても仕方ない。僕はものに慣れるのに人より多くの時間を要するんだ。
それから、僕はその森で何日もさまよった。時間の間隔は初めからなく、今というのが現在という時間の枠組みに入ってるということにさえ違和感を感じた。
この森に自分がいるというのは、とても妥当だと思うし、そうあるべきだと心の底から感じている。しかし、それは結果と手段がどこか入れ替わっているような気がしている。この森は何か目的を果たす為の手段であって、暮らし住むような場所ではない。ただ、僕はあまりに長く居すぎたせいか、その因果の逆転に慣れてしまった。恐らく、僕はここに入る前に、しっかりとした信念を持つべきだった。若しくは、持っていた信念を忘れないように確認するべきだったんだ。
まあ、どちらにしろ過ぎてしまったことだ。まずは、抜け出すという目的を自分なりに解釈して、それに合わせて手段としての森を定義しないといけない。話はそれからだ。手遅れかもしれないが、まだ出口が開いている可能性だってある。どうにか自分なりの方向性を定めなければならない。