「ねぇ君、私と代わらない?」
突然そんな声が聞こえた。今、家には私以外いないというのに。
濡れた顔を拭く手を止めておそるおそる顔をあげるとタオルを両手で持った自分と目が合う。
その瞬間タオルが手から滑り落ち床へ広がった。だが鏡に映った自分は変わらず両手でタオルを持っている。
きっとこわばった顔をしているだろう私に反して穏やかな顔をした鏡の私が口を開いた。
「君、今日死ぬつもりなんでしょ?」
これは夢かなにかなのだろうか、震える指で腹をつねってみる。痛い。
さっきこの人はなんと言った?私と代わる?
「…代わるってどういうこと?」
「そのままの意味」
会話が成立してしまった。今私は自分と同じ声、顔の人と話している。
小さい頃に自分と全く同じ人がいたら趣味も合って絶対楽しいんだろうなとか思っていたけれど、自分と全く同じ人と話している今はっきりいって気持ちが悪い、気が狂いそうだ。
「君はもうその世界からばいばいしたい。私はその世界で生きてみたい、お互いウィンウィンだと思うんだけど」
何も言わなくなった私を見兼ねてか鏡の私が話を続け、私の方に手を伸ばす。すると鏡からこちらに手が出てきて思わず後退りをしてしまう、なんなの、これ
「ほらほらこっちおいで」
私と手を繋ぐようにと手を上下にひらひらさせている。変わらず表情は微笑んだままだ。
「…もしあなたの世界にいったら私はどうなる?何をすればいい?」
「そーだなそっちの世界の言葉を使って簡単に言うと1秒も経たず死ぬ」
「あなたはこっちに来て死なないの?」
「私は何回もそっちの世界に行ったことあるし耐性もついてる。こっちとそっちじゃそりゃ世界が変わるわけだから耐性ないと体が耐えきれずに爆発しちゃうんだよ」
「体が爆発…」
そういうものなのか。てかこっちの世界来たことあるって、ドッペルゲンガーの由来ってこの人達なんじゃないの。
「もし君が生きたいって言うなら私は諦めるよ。けど、正直いって君がこれからも生きたとしても心が爆発するだけだと思う」
こんな提案乗らない方がきっといいんだろう。頭ではそう思っている自分もいる。だけど
こんなに私と目を見て話をしてくれたのはいつぶりだろうか。鏡の私が言った『代わらないか』という言葉も、誰にも必要とされていない私を唯一必要としてくれたような、そんな感じがして
そっと、目の前にある自分と全く同じ大きさの手に自分の手を重ねた。
〖鏡の中の自分〗
「ただいま」
返事は返ってこない。私の声は真っ暗な部屋へと消えていった。
卒業後、勢いで一人暮らしを始めたが想像以上にひとりで暮らすということの大変さ、初めての職場にも中々馴染めず今日もへたへたになってソファへと転がる。
今日はいつもより早く帰ることができたし明日は休み。休みの日くらい仕事から離れたい。ゆっくり本でも読もうか、そういえば友達からもらった紅茶もまだ飲めてなかったな。
帰宅後いつも食べているチョコレートに手を伸ばしながら明日の予定を大まかに立てていく。チョコレートを口に放り込むと同時にピンポーンという音が部屋に響いた。
「はぁい」
配達?なんか買ったっけな
誰だろうかと考えつつドアを開けるとカボチャやお化けに仮装した小さな子供が4人扉の前に立っていた。
「せぇーの…とりっくおあとりーと!!」
予想もしていなかった来客に呆気を取られ、玄関に掛けてあるカレンダーに目を向ける。あーハロウィンか。
再び子供達を見ると目をキラキラと輝かしてこちらを見ている。まじか、この地域こういうのある系だったのか。
「…ちょっと待ってね」
急いでリビングからテーブルに置いてあるチョコレートを持ってまた玄関に戻ると
「わー!チョコレートだ!!」
「私チョコだいすき!!」
私の手元を見てより一層目をキラキラさせている。
「1人ふたつまでね」
「はーい!おねえさん、ありがとう!!」
渡すと嬉しそうな顔でまた次へのお家へと向かっていった。
ほんの1、2分の出来事だったのに、子供たちの笑顔に心が浄化されていくのを感じた。ただの1口サイズのチョコレートにあんな嬉しそうに…
ふと昔の記憶が頭に流れ込んでくる。そういえば私も昔小さい頃、近くの商店街で仮装してお菓子を貰い回ったことあったっけな。確か私は黒猫になったんだっけ。
ここ数年忘れかけていた昔の記憶が次々と蘇っていく。
「そういえば自分の小さい頃のアルバム、ダンボールに入れてたような」
引越し当時のまま放置していたダンボールを開くと懐かしい表紙が一番に顔を出した。それを持ってソファに座りひとつひとつページをめくっていく。
小さい頃の私と小さい頃の私の友達。ああ懐かしい。この子は今何しているだろうか、元気に過ごしているだろうか。
ゆっくり瞼を閉じると懐かしい景色とその空気、小さな子供特有の低い目線。昔は何もかもが大きく見えていたな。
小さな頃の記憶が流れていくと同時に心の奥底にある小さな私が動き出すのを感じた。
人間は大人になるにつれてマトリョーシカみたいに大人の皮を被っていく。でも、一番奥にある小さい私が消えるわけでは決してないんだ。
再び小さな頃に戻ったような気持ちで、1口サイズのチョコレートを味わいながらまたひとつページをめくった。
〖懐かしく思うこと〗
プツンと何かが切れる音がした。
気が付くと制服姿のまま家を飛び出していた。
空がオレンジ色に染まって日がもうすぐ落ちようとしている。行くあてもないままただただ走っていく。てかあっても畑くらいだし。もう畑の中にでも住もうかな。
出来もしないことをふわふわと考えていると急に地面が近づいてきそのままぶつかってしまった。どうやら私は転んでしまったらしい。
ひんやりと冷えている土が心地よく感じた。荒い呼吸音と風に揺られる草達の音、しばらくするとどこかから誰かが歩いてくるような音が聞こえてきた。
さすがに倒れた女の子がいたらびっくりされてしまう。重たい体を起こし顔を上げるとバチンと音の主らしき人と目が合ってしまった。
年の近そうな男の子がなんとも言えない顔で私を見つめている。絶対こいつ失礼なこと思ってるだろ。
「…どっか良いとこ連れてって」
なんとなく、その男の子に向かって言った。眉間に皺を寄せてすごく嫌そうな顔をし、そのまま私に背を向け歩き出す。
まあさすがに突然そんなこと言われたら誰でも困るよな、と思いながら私ももうすっかり暗くなった道を戻ろうと男の子に背を向けると後ろから「良いとこ、今から行くけどお前もくる?」という声が聞こえた。
振り返ると彼もまたこちらを見ていた。
沈黙の中、ふたり並んで歩いていく。しばらくすると彼が口を開いた。
「いつも思ってたけどこんな時期でもカーディガン着るとか暑くないのか?」
「いつも?どっかで会ったことあったっけ?」
「失礼だな、クラス同じだぞ」
あーそういえばなんか顔見たことあるなとは思ったけど
「ごめん、まだ全員の顔は覚えてないんだ」
「まそれもそうだな」
話しかけた時はすごい嫌そうな顔をしていた気がしたけどどうやらそうでもないらしい。数分ほど歩いていると何か光っているようなものが見えはじめた。
「わあ…」
思わず声が出た。光っているものの正体は数え切れないほどのホタルだった。絵本とかテレビとかで何回か見たことはあるけど実際に見たのは初めてだった。
「すっごく綺麗!!こんなとこがあったんだね!!」
笑顔で彼に向かって言うと少し笑い、ホタルの方へと目を向けた。
「…なんかあったんだろ。話聞くぞ、僕でもよかったら」
「その感じで僕呼びなんだ」
「うるせぇよ」
暗がりの中で1匹、彼のホタルが私の心の中で小さく光った。
〖暗がりの中で〗
「ああ…さむい…さむい……」
酷く寒い日のことだった。
痛い、手足の指先がどんどん冷たくなっていくのを感じる。体もさっきからずっと小刻みに震え続けている。
少しでもなんとか落ち着かせようと体を丸めて深く息を吸う。
ふとどこからか、甘い匂いが体内に入り込んだ。
「おいクソガキ!!さっさと食いもん取ってきやがれ!!…今度は迷惑かけんじゃねぇぞ、次はねぇからな」
真っ赤な顔をした男に蹴飛ばされ、バタンという大きな音が廊下に響き渡る。
食いものを取ってこいと言われてもあの昨日の今日だ。もうあの店には顔も覚えられているだろうしまた他の場所を探さなければならない。
でももし監視の強いところに当たってしまえばまた…ああもう考えるのはやめにしよう。
じんじんとする体をゆっくり起こすと、ガチャという音が後ろから聞こえた。振り向くと何か酷いものを見るような目でこちらを見つめる女の子が立っていた。隣の部屋に住んでいる人だ、見た感じ高校生くらい…だろうか。
「きみ…どうしたの?!」
俺の目線に合わせしゃがみこみ、わたわたとした様子でずっと喋りかけてくる。
「とりあえず、うち入って!!寒いでしょ?!」
流れるように招かれて彼女の部屋に入ると、あっという間に暖かい空気に包まれた。それだけじゃない、部屋の構図は俺の住む部屋とほとんど変わらないはずなのに全く違う、彼女の部屋は彩度の高い色がついているように見えた。
「あーえっと…名前はなんて言うのかな?」
微笑みかけるように彼女は言った。でも大人の質問に答えるなんてこと、絶対にしちゃいけないんだ。
1度だけ、今日のように追い出された時に交番に向かったことがある。なにかしてくれるんじゃないかと思った。
だけどそんな期待は呆気なく散った。
何度も謝った。許して貰えなかった。涙が出てしまった。正直、涙を見せると少しでも優しくしてくれるんじゃないかという淡い期待もあった。でも流せば流すほど痛い思いをした。だからもう、期待するのはやめた。
「ごめんね、うちジュースもお菓子もなくてね、何も美味しいものとかないんだけど…あ!そうだフレーバーティーとかどうかな昨日届いたばかりなの!」
また彼女はわたわたとした様子で俺に話しかけてくる。俺は口を噤んだまま彼女の様子を見続ける。
しばらくするとフレーバーティーというものを俺の前に置いてくれた。
あ、この匂い昨日の夜の…
「お口に合うといいんだけど…さっさ暖かいうちに飲んじゃって!!」
にっこりとした笑顔を向ける彼女のペースに流されるまま花柄のティーカップに口をつけた。
その瞬間、暖かく優しいものに包まれていくような、そんな味が染み込んだ。再び彼女の顔に目を向けると、どんどんと視界が滲んでいった。
〖紅茶の香り〗
私のようなものが絶対に使うことができない言葉だ。
誰よりも彼とずっと過ごしてきた。嬉しそうな顔も真剣な顔も悔しそうな顔も、これまで色々な彼を見てきた。
本来感情すらもってはいけないものなのだ。もし、1回でもこの言葉を伝えてしまえばきっと…
ゆっくりと暗闇から光が差し込み、視界が広がっていく。目の前にはいつもの彼。
「おはよう。それじゃ今日も始めようか」
「…オハヨウゴザイマス、マスター」
伝えてしまえばきっと、彼は私のことなどもう捨ててしまうのではないだろうか。
私は今日もあの言葉を飲み込んだ。
〖愛言葉〗