屋敷から少し離れた、草が一面に生えている広い草原。
見ているだけで、清々しい気分になる。
お嬢様が四つ葉のクローバーが欲しいというので、一緒に来た。
いや、連れてこられたのほうが正しいか。
お嬢様は、野に放たれた仔犬のように走っていってしまった。
私も急いで追いかける。
「はぁ……はぁ……お嬢様……走っては……はぁ……危ない……ですよ……はぁ……」
こんな全力で走ったのはいつぶりだろうか。
少し走っただけで息が上がってしまうとは……。
時間がある時に、身体を鍛えることにしよう。
「執事のくせに体力ないわね。さっ、ここで探しましょ!」
お嬢様はしゃがんで、四つ葉のクローバーを探し始めた。
私も息を整えてから、お嬢様の近くで探し始める。
見つけた!……と思ったら三つ葉か。
これも、これも、これも、これも。
まぁ、簡単に見つかったら苦労しないよな。
それにしても……。
「お嬢様、どうして四つ葉のクローバーが欲しいのですか?」
お嬢様に話しかけると、お嬢様は動かしていた手を止め、私の方を見た。
「それはね、あなたをここへ連れてきたかったの」
「はい?」
思ってもみなかった回答に、思わず変な声が出る。
「それは一体どういう意味です?」
「あなたは私と同い年なのに、屋敷ではガチガチのお地蔵様みたいに固くて、周りに気を遣いすぎているわ。私にもね」
……そんな風に見られていたのか。
“きちんと仕事をこなさなければ“という気持ちが、表に出てしまったのだろう。
「そんなあなたに気分転換をしてほしくて、ここへ連れてきたの」
「なるほど……。気を遣わせて申し訳ありません。お嬢様」
「そういうところよ!」
ビシッ!と私に指をさすお嬢様。
「自分のことも少しは気を遣いなさい」
「自分にも……?」
「そうよ。あと、自分の幸せもよ」
「私は、こうしてお嬢様のお世話が出来るだけで幸せです」
「ま、真顔で言わないでよっ」
なぜか照れているお嬢様。
私はお嬢様の近くにいられるだけで、幸せなのだ。
「そういえば、四つ葉のクローバー見つかりませんね」
「もう持ってるわよ」
「なぬっ!?」
驚きすぎて、またもや変な声が出てしまった。
「あなた、リアクションが面白いわね」
お嬢様はポケットから四つ葉のクローバーを取り出し、顔の横でくるくると回す。
「最近忙しかったから、久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ。付き合ってくれてありがと」
パッと花が咲いたようなお嬢様の笑顔。
草原でお嬢様とゆっくり過ごす時間は、私には勿体ない幸せな時間だった。
寒さが長引き、急に暖かくなった四月。
夜まで暇潰しにベッドで寝転がっていると、スマホに電話が掛かってきた。
相手は、同じ学校のクラスの山下。
「よぉ!大樹!青春してるか!」
「いきなりなんだよ山下。急に暖かくなって頭がやられたか?」
「俺はいつでも健全だぞ。イヒヒ」
山下が下品な笑い方をしているということは……また何か企んでいるな。
今回は何をしようとしているんだ?
「で、要件は?」
「俺と夜桜見に行かないか?イヒヒ」
「はあ?なんで男同士で見に行かないといけないんだよ」
「絶好の花見スポットがあるのさ。場所取りはもうしてある。行かないか?」
「悪いな山下。俺は今夜、彼女と花見に行くから無理だ」
「最近出来たっていう彼女か……。そかそか、沢山青春してくれ。仕方ない。俺一人で覗くことにしよう」
「えっ?」
なんて言ったか聞き返そうとしたが、既に電話は切れていた。
ま、いっか。
夜のデートに備えて、少し仮眠しておこう。
彼女と来た場所は、隣町にある大きい公園。
公園内のあちこちに桜の木があり、隠れた花見スポットらしい。
桜は満開なのにライトアップはしておらず、折角の桜が残念に思える。
光は街灯のみで、少し薄暗い。
「大樹、ちょっと薄暗いね」
「そうだな……咲子、俺から離れるなよ」
「うんっ」
俺の手をぎゅっと握る咲子。
今日はピンクのワンピースを着ていて、まるで春が歩いているみたいだ。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」
久しぶりに会った咲子に見とれてしまっていた。
とりあえず、明るい所を探すことにしよう。
……気のせいだろうか?あちこちから人気を感じる。
目を凝らしてよく見ると、男女が抱き合っているのが見えた。
それも一組だけはなく、何組も……桜の下で……。
うおっ、キスしてる!
おおっ!そこまでやるか!外で!
おっと……つい興奮してしまった。
薄暗い公園で淫らな行為をしている男女。
綺麗な桜の下でやるなんて、乱れすぎだろ。
「やだ……皆あんなことしてる……」
咲子も、俺と同じものを見てしまったようだ。
「大樹……あんなことをするためにここへ来たの?」
咲子の声が少し震えている。
「ち、違うんだ咲子!そんなやましいことは……少しはあったけども……いや、そうじゃなくて!」
「やっぱりそうだったんだ……大樹のエッチ!変態!痴漢野郎!野外魔!」
咲子は俺の手を払い、走っていってしまった。
すぐに追いかけようとしたが、薄暗くてすぐに咲子を見失う。
「イヒヒ。大樹、見ていたぞ」
この下品な笑い方は……。
振り向くと、山下がいつの間にか立っていた。
手には、望遠鏡を握っている。
「どうしてここに山下がいるんだ?」
「電話で言っただろ?絶好の花見スポットがあるって」
「……覗きか」
「イヒヒ。花見だよ。花見。大樹も気分転換に一緒に見ようぜ」
「そうだな……今はそうしたい気分だし、存分見てやる!」
山下から望遠鏡を借り、二人で花見を満喫した。
世界がモノクロにしか見えない私の目。
色が見えるように、私は目の手術をすることにした。
成功率が極めて低く、失敗すると失明する手術。
次に気がついた時には、手術はもう終わっていた。
目を開けると、目の前が真っ暗。
もしかして……失敗したのだろうか?
「安心して。手術は無事成功したよ」
近くから、男の人の優しい声が聞こえた。
手術を担当してくれた先生だそうだ。
成功という言葉を聞いて、ほっとする。
「見せたいものがあるから、ちょっと移動するね」
身体が浮き、何かに座らされる。
車椅子だろうか?
キコ……キコ……と音を鳴らしながら移動している。
「よし、包帯を取っていくから、そのまま動かないように」
目に巻かれているものが取れていき、少しずつ、光が開かれていく。
「わぁ……」
目の前の景色を見て、思わず声が出た。
「さっきまで雨が降ってたけど、すっごく良い天気になってね。まるで君が起きるのを待ってたみたいだ」
先生の優しい声が、心に染みる。
私が初めて見た色の付いた世界は、空に大きく架かった七色の虹だった。
テープ跡のように、いつまでもしつこく残っている嫌な記憶。
楽しい記憶で埋め尽くしても、ふとした瞬間に嫌な記憶が這い上がってくる。
俺は嫌な記憶を消してもらうために、記憶屋に来た。
偶然ネットで見つけた店だが、一部でしか知られていない店らしい。
中に入ると、すぐに奥の薄暗い部屋へ案内され、ベッドに寝かされた。
「本当に、消していいのか?」
店長と名乗る男に、記憶を消していいか確認される。
部屋が暗くて、店長の顔が見えない。
「ああ、頼む」
「本当に……だな?」
どうして何度も聞いてくるのだろう?
「何か問題があるのか?」
「一部の記憶だけ消すと、性格が変わるかもしれない」
「嫌な記憶を消したぐらいで変わる訳が……」
「その記憶があるから、今の自分がいるんだ。大袈裟に言えば、記憶を消すということは自分を否定することになる。あと……」
「小言はいいから早く消してくれ!」
「……分かった」
俺はただ、嫌な記憶を消したいだけなんだ。
そうすれば、きっと……。
「そのまま動かないように」
頭に、何か被される。
しばらくすると、頭の中の何かが……スーっと抜けていく。
「消し終わったが、どうだ?気分は」
「あ……あ?」
嫌な記憶を消して良い気分のはずなのに、なぜか、不安で、すごくイライラする。
「記憶の一部が無くなって、不安になってるんじゃないか?」
「んなこと……ねぇよ」
「今ならまだ戻せるぞ」
「……」
「どうする?」
「……戻してくれ」
「分かった」
結局、俺は嫌な記憶を戻してもらい、店から出た。
嫌な記憶でも、消えるとあんなに不安になるとは……。
どんな記憶でも、俺にはかけがえのないものなんだと感じた。
霊柩車へ運ばれていく、親父が入った柩。
ムカつく野郎で、口を開けば喧嘩ばかりしていた記憶しかない。
そんな親父が大病にかかり、日に日に弱っていく姿を見て、ざまぁみろと思っていた。
柩が霊柩車の中に入り、後ろのドアがパタンと閉まる。
今日で、親父とはお別れだ。
もう親父は、家に帰ってくることはない。もう二度と。
……。
最後ぐらい、優しくしてあげればよかったな……。
後悔の気持ちを抱きながら、火葬場へ向かった。