月風穂

Open App
3/5/2024, 1:06:21 PM

【たまには】

ふと有意義な休みを過ごそうと思う木曜の午後。
金曜に家路に着き、翌日の予定を立てる。
以下は私のとあるたまにはの日である。

7:00起床
なぜ私は休日に早起きをしているのだろうか。早速昨日の私に苛立ちを覚えながらも、ここで起きなければ台無しである。起きる。

7:15散歩
身支度を整え軽く散歩へ。
日差しが眩しくも、咲き乱れる花たちに颯爽と挨拶をかます。犬の散歩の人たちともすれ違う。可愛らしい犬に癒される。

8:00朝食
帰宅し朝食の準備。平日はさっさと済ませるが、今日は有意義な日なので、いつも食べない和食を準備。昨日ほぼ用意する。白米、みそ汁、納豆、魚、ヨーグルト。食後のコーヒー付きである。

10:00お出かけ
諸々済ませお出かけである。精一杯のおしゃれをし、田舎なので車でショッピングモールに向かう。
欲しいものに目星を付け、ウィンドウショッピングも実施。スタバに行きたいが無駄遣いは控える。今日は無駄遣いの日ではない。有意義な日だからである。

12:00昼食
何にしようか惑う。昼食は決めていなかったからである。いい天気なので持ち帰りをして公園かそこらで食べようと思う。マックに特別感はない。よし、モスバーガーである。モスバーガーを手にした私は公園へと向かう。しかしここでひとりであることに寂しさを覚える。公園では家族連れやカップルがうじゃうじゃしており、一人の私は目立つ。だが私は屈しない。今日は有意義な日なのだ。気にせずモスバーガーを頬張る。おいしい。

13:30本屋
文豪作品を好むようになった私は本屋へと向かう。本は昔から好きである。並んでいる新書を見ながら、目当ての本を探す。今回は志賀直哉と菊池寛である。いつか本棚を文豪の作品で埋め尽くしたいとの欲望を持つ。いいものは語り継がれている。だからこそ価値があるのだ。古いから良くない、新しいから優れている訳ではないのだ。

15:30帰宅し一服
一服といってもタバコではない。甘いカフェオレを飲み、買った本を少々読み進める。できれば畳の上でこたつにでも入りながら読みたいものだ。まだ見ぬ喜びの未来を頭に思い描く。うたた寝をしつつ、優雅な時間を満喫するのである。

18:00夕食
夕食である。腹が減っては戦は出来ぬので、私は昨日から仕込んでおいたチキンでバターチキンカレーを作る。我ながら美味である。昨日の私の仕込みのお陰である。流石昨日の私よ。

19:30お風呂
薄汚れた身体をきれいに洗い流す。温かな湯船にじっくりと浸かり、いつもの疲れを癒しにかかる。鼻が喜ぶ匂いの入浴剤も相まって、私は温泉にでも来たような心地である。ここは城の崎である。目は開けない。そこには狭い現実が待っているからである。

21:00映画鑑賞
一日の締め括りは好きな映画である。今日は和風で来たので、映画も邦画を観ることとする。悩んだ末に小津安二郎を選択する。いつも家族を描く小津映画は、寝る前の私に心地よい安静な状態へと導いてくれるのだ。いずれにしても私は小津が好きである。私は隠れて小津ちゃんと呼んでいるのだ。

23:30就寝
有意義であった。一日の振り返りをしつつ、私は温かい布団のなかで幸福な情景を思い浮かべる。いつも忙しなく働き、どうでもいいことに考を捧げている。未来への不安も今日は忘れよう。おやすみ。


たまにはこんな日もよかろう。
大した日ではないが、私にとっては大した日である。

3/1/2024, 1:15:37 PM

【欲望】

また趣味の映画の話である。
書くことがないときに趣味が役に立つとは。
このように使われていては映画も困り顔であろうが。

私が言いたいのはミケランジェロ・アントニオーニの『欲望(1966)』の話である。
ミケランジェロとアントニオーニという、いかにも芸術家だぞ私は、といった名前である。
しかしこの人はすごいのだ。
何がどうすごいのかと言われると、ここでは話しきれないので割愛する。
赤いポスターはデザインの巧みさも相まって、映画好きの間では流行ったようなのだ。
私が生まれる何十年も前の話である。
同世代でアントニオーニの話ができる人と私は対面したことがない。
SNSではたまに見かけるが、話しかける勇気はない。私はこう見えてシャイである。

映画の話に戻るが、私がこの映画と出会ったのは18の頃である。
それまで映画といえば現実逃避のアイテムであり、わかりやすいものばかりを観ていた。
しかし映画を少しかじっていくと、通ぶりたい私は難解な映画にも手を出すようになる。
そして今回の『欲望』に至るのである。
今見直してみるとそこまで難解ではないが、当時見た私は驚いた。
「なにこの終わりかた?」気が抜けてふっと笑ってしまうほどであった。
強制終了したかのような衝撃であったのだ。
今でもこの映画のラストシーンは私の記憶のなかに残っている。
忘れっぽいこの私がである。


映画初心者の頃はこうした衝撃を幾度も体験した。
今ではすっかり通ぶっているため、映画を観て大して驚くことも減ってきてしまっている。
これぞ感性の衰えであろう。
今でも好きな映画は学生時代に観たものばかりである。
私の人生が学生時代に集約されてしまうかのようである。
集約できないよりはましか、と思えばあの頃の私の体験も捨てたものではない。
困った。またアントニオーニの作品を観たくなってしまった。

2/28/2024, 1:17:38 PM

【遠くの街へ】

数年前のこと。
早朝耳元で携帯が鳴った。
人は睡眠を阻害されるとストレスを感じるようである。
こんな時間に電話をかけてくるとは不届きな野郎だと、迷惑電話に苛立ちを抱えて画面を見ると父からであった。

私の父方の祖母が亡くなった。
祖母は東北に住んでおり、私の記憶にはほとんど面影を残していない。
私たちは東北へ向かうこととなった。
金がないので新幹線や飛行機は使えず、車で早朝から夜遅くにようやく着く次第であった。
いつぞやぶりに会う親戚たちは、ほぼ初対面も同様であるが、私の巧みなコミュニケーション能力で何とか乗りきることができたのである。
祖母との思い出があまりない私は、少々申し訳ない気持ちとなった。
けれど、最後をおくることに意味があるとすれば、私はこの場にいるだけでも良いのかなと思ってもいるのだ。
祖母がいるから今の私がいるのである。
根本的な存在意義に立ち返った私は居心地の悪さにさよならをし、平静を取り戻した。


こんな何百キロも離れた地でも、数多の人が生活をしている。
現実味がなく、私たちが来たから急遽この世界ができたのではないかとラッセルの世界五分前仮説のような思考を巡らせる。
日頃過ごす街並みと趣の異なる景色は、違和感のある特異感を引き寄せている。
知らず知らず定型化した私の頭の中の街は、その土地特有のルールにより歪な形を見せる現実の街を受け入るのが困難でもある。
2日ほどしかいることはなかったが、まだ見ぬ地に足を踏み入れることの面白さも痛感するのである。

見かけたことのない品物や店。
一風変わった道路や建物たち。
岩を殴り付けるような波と、変わらず生き続ける私。
祖母の死がきっかけではあったが、祖母が存在していたこの土地は、祖母や私の親戚にとって何ものにも代えがたい故郷であるのだ。
次にあの街へ行くのは何時だろうか。
できれば良い報を迎えられれば、また違った喜びの街を望むことができるであろう。
そして私たちは帰路に着き、再び日常を繰り返すのである。

2/27/2024, 1:14:19 PM

【現実逃避】

現実逃避をしたところで現実は変わらぬのだ、とわかってしまった頃から、私は少々大人になった心地がする。
今では減ってきてはいるが、まだ現実逃避をすることはある。
時折意図的に紡ぐこの不用意な時間は、私の心を潤しているようにも思えるのである。

私は現実逃避にパターンを持たせている。
他人が完成させた小説や映画は特にお薦めである。
私以外の人間が作った世界を知ることで、いかにちっぽけな悩みを持っているかが判明する。
聖書のように神が救ってくれるわけではないが、人を救うのは人と思えば、神の出る幕ではない。
こんなところでいちいち出られていては、神も気が休まらないってもんである。

次いで自分会議である。
脳内の何人かの自分と話し合うのである。
自分だけなので結論は予定調和であるが、まるで他人が会議しているかのような錯覚を感じさせ、物事を客観視する時間となる。
ひとりだと寂しいので、私は分身を何人か作ることで気をまぎらわせるのだ。
敢えて時間を置くことで、頭をクールダウンさせつつ、次はどう行動すべきかを読むのだ。


だがやはり、そんな現実逃避も歳を重ねると変わっていく。
結局のところ私は現実に不安を感じる。
現実逃避をしているのに現実の不安が頭を過るため、いてもたってもいられなくなるのだ。
現実逃避をするために現実と向き合う。
つまりは現実と向き合った後で現実逃避を実施することもあるのだ。
これはご褒美という名目となり、順序を変えるだけで意味が変わってくるのだ。
かといって現実といつ向き合おうが、順序を変えようが結末は変わらないのだから、とっとと現実に折り合いをつけてから挑むのがいいところである。
物事に愛を見出だせば、何だか現実とも戦えるように思えるのだ。
要は愛と勇気である。
私はアンパンマンか。

2/26/2024, 12:11:02 PM

【君は今】

“君は今”となると、大概の人は特別な人を想像するであろう。
私は大して何でもない人の事を思ったりしている。

例えば、一緒のクラスになったが大して話すこともなかったあいつとか。
例えば、たまたま授業が一緒だったとなりのクラスのあの娘とか。
例えば、就活で偶然同じ企業を受け、その時なぜか面接後一緒に喫茶店でダベっていたあの人とか。
私にとって、人生においてどうでもいい人たちを思い浮かべることがあるのだ。
大概こういった人たちは私の事を微塵も覚えていないだろうが、別にそれは良いのだ。
私の記憶にいたという事実があるからである。
こう考えると、私は私自身が気持ちが悪い奴であるような気がしてならない。
人生において影響を与え得ることのない相手を覚えていることは、果たしてどんな意味があるのだろうか。


ふっと息をつき、椅子に座り込む。
何も考えずぼけ~っとしていると、時折過去の記憶が巡ってくる。
90年代のパソコンほど容量の少ない私の脳みそは、こんなに忘れても良い人の記憶を保存している。
私のキャッシュの削除の仕方は不明である。
データの削除方法も知らない。
無理やり削除しようとすると、身の回りの大事な記憶も忘れてしまいそうである。
なんと不器用な脳みそであろうか。

精密でなくともぼんやりと覚えている記憶。
私は今でも過去を生きているのだなと自らの未練がましさに嫌気が差す。
もう会わない人とは死人も同然なのだ。
わたしはもっと“今”の人に会いたいのだ。

まあそんな私にとってどうでもいい人たちであっても、今皆幸せでいてくれれば良いのである。
こんな未練ともおさらば!できるほど私の脳みその処理能力は高くないのである。
次のアップデートはいつだ?

Next