月風穂

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2/25/2024, 12:01:57 PM

【物憂げな空】

いつになれば私は毎日楽しすぎるほどの人生を歩めるのであろう。
毎日が平凡であり、代わり映えのない日常は時に私の精神を疲労困憊へと導くのだ。

巷では充実した人生をなどと偉そうな講釈を垂れる広告は多い。
私だって充実した人生を送りたいのだ。
ささやかな幸せを毎日感じられなくさせているのはそちらのほうである。
ありもしない幸福を掲げ、他人の高貴な生活と一般人の生活を横並びにさせているのだ。

私は元来小さなことに幸せを感じる者である。
しかしそれでは物足りない。
私は欲張りでもあるのだ。困ったものである。
人は無い物ねだりをする。
可能であれば明日から働かず、毎日色々な場所へ行き、色々な人と出会い、色々な本や映画に触れ、色々な空の色をみたい。
生産され尽くした人生では、私は満たされなくなってきたのだ。
今の仕事は先が見えない。このままで良いのだろうか。
私本来の価値とは何か。
私が金を稼げなくなるとしたら、次にどんな人生が訪れるのだろうか。
なぜ私は金を稼がねばならぬのだろうか。
人として生きているからである。
私は資本主義社会の小さな歯車なのだ。
私は誰と競いあっているのだろうか。


連休最終日の夜はこれだから困る。
何の価値もない他人の人生観を自分に当てはめ、これだから私の人生は良くないと自己嫌悪に陥らせる。
空の色はピンク色などとふざけた事を言った子どもの頃の私は、今や空は青色などと至極つまらないことを言う大人へと成り果てた。

私の日常の空は物憂げであるが、時折日が差すことがある。
確かな予報などないが、私が歩んできた道は間違っているわけではないのだ。
空は平等で誰かの目からみればピンクにもなり、曇りは晴れとなる。
物憂げであろうが、空は空なのだ。
もしかしたらスーパーマン辺りが私を助けに来てくれるかもしれない。
では私もあり得ない未来を夢見て、明日を生きていけば良いのだろう。
楽しすぎる毎日にはほど遠いが、ちょっと楽しい毎日を感じていければ良い。
活発な空はそれはそれで下界の人間は大変であろう。
明日から少しは幸福を見つけてみようと頑張る私なのであった。終わり。

2/24/2024, 1:13:52 PM

【小さな命】

小さな命=こどもたちという繋がりがあり、やはり守るべきであるのは言うまでもない。
私たち大人もかつては小さな命であったのだ。
なぜ大人になれば人は傲慢になっていくのであろうか。

命は平等である。私もそう思う。
小さな命は守られるべきである。私はそう思う。
だがそれは人間の中の話である。
虫となると話は変わってくるのだ。


夏になると私は深夜に蚊と戦う。
奴らは音も立てず忍び寄るくせに、耳元で壮大な羽の音を鳴らしていくのだ。
刺された後は腫れ、痒みを帯びるのだ。
この音は私の安眠の終わりを差す。
安心な寝室は危険な戦場と化すのである。
このような時、命は平等などと言っていられない。
蚊と話し合えれば良いが、奴らも命懸けなのである。
私も眠れなければ明日の生活にかかわる。
私の目は血眼になり、この身果てようとも戦う覚悟なのである。
蚊取り線香など意味はなく、いつの間にか現れ消えていく様は忍者と相違ない。
私は蚊ではなく忍者と戦っているのだ。
そう思うと気が引き締まるのである。

このように、命は平等であると述べるには私たちはいささか傲慢なのである。
自分の身が危うければ、前提を覆すことも厭わなくなる。
私の手で殺めてしまった命もある。
本当に済まないと思うが、私の身を守るためにはしようがないこともある。
もう少し寛大でいたいのだが、そうも言っていられないのだ。
世知辛い世の中である。

2/22/2024, 12:52:01 PM

【太陽のような】

私が小中一緒だったあの子にはこの言葉が似合う。
いつも明るく、活発だった女の子である。
ポジティブでつらいことなどないといったようなものであった。

私が嫌なことがあり、ため息をついたときのこと。
「ため息ついたら幸せが逃げちゃうよ!」
などと私を励ましているのかよく分からないことを言ったりもした。
クラスの皆にも明るくフレンドリーであった。
嫌味や悪口を言うこともなく、いつも笑顔であった。
特段嫌な気持ちになったことはない。
むしろそんな彼女は皆から好かれていたように思う。
応援団や班長などもやっていた気がする。
根っからの太陽属ってやつである。

こんな子に出会う度、私は疑問に思う。
太陽のような人は、曇ったり雨になったりしないのだろうかと。
私のような人間は、曇って表情を読ませないようにするものである。
太陽は困ったり大変だったりしても太陽であるのだろうか。
私は彼女の曇った姿を知らない。
それも踏まえて、太陽のような人はすごいと私は思うのだ。
なりすましの太陽のような子とは違い、この子は本物であったのだ。


彼女とは高校が違ったので、それから先のことは知らない。
あの当時太陽のようだった少女は、今でも太陽のような輝きを放っているのだろうか。
彼女の周りには笑顔が咲いているように思う。
なにしろ名前も「あかりちゃん」であったからだ。
照らすには申し分ない名前である。
私の名前が「くもりちゃん」でなくてホッとする曇りの今日この頃である。

2/21/2024, 12:28:19 PM

【0からの】

如何様な人生であれば0からやり直したいなどと思わないのだろうか。
私は0からでも人生をやり直したいと感じることがある。
そりゃあ土台無理なことは承知である。
人生に完璧を求めたところで、私はいつでも完璧とは思えない天邪鬼であるからだ。

0からの人生でも、過去のどの時代に生まれ変わっても私は今の年齢まで生きていられる気がしない。
現代よりもハードな過去に、早々にリタイアに至ると推察する。

そう考えると、私の0からでも人生をやり直したいという野望はポッと消えて失くなる。
0でなくとも今生きているのだから、悔いなく生きれば良いのだ。
私が感じたこと、思ったことを心のなかで留めるだけではなく、人生へと転嫁せねばならぬ。
例えば断食のように腹持ちを空にすると、新しい発見があるようである。
つまり脳内をリセットし、私自身と対話を行うことで新たな側面に出逢うことができるのだろうか。
様々なしがらみから0になることで、私を再構築しようではないか。

手始めに明日の仕事を休むことから始めよう。
なんてことができれば気を病むことはないのだが。


2/20/2024, 12:39:03 PM

【同情】

同情したところでではないか。
私の同情は一銭にもならないがいるか?
同情に価値はないし、甚だ傲慢にさえ感じるものだ。

同情をして自己満足に浸る人は多い。
何も解決はしないし、鬱陶しい助言なんかしてくるやつもいる。
“同じ情”になるの意味だが、違う人間なのに同じ情になるのは困難である。

『ちびまる子ちゃん』の永沢くんをイメージしてほしい。
永沢くんの家が火事になった。玉ねぎ頭の少年に同情できるだろうか?
私はできない。
彼に同情したところで燃えた家は戻ってこない。
私は正解はわからないが、少なくとも同情はしない。
まる子たちは自分たちができることは何かを考え、寄り添ったのである。
この光景は大人になった私たちにとって、見習うべき姿勢である。
ただ同情するだけならば誰にでも出来る。
大切なのはその先のどうするか?ではないだろうか。

無論どうでもいいことなら同情する。
私は私に対して同情することもある。
他人事のように考えた方が存外気持ちは楽になるのだ。
「まあこんな日もあるよね~」などと能天気なもう一人の私は私に同情し、励ます。
永沢くんに比べたら私は随分マシだなとたまに思うこともある。
玉ねぎ頭な上に家が火事とはつらいにも程があるであろう。

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