月風穂

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2/21/2024, 12:28:19 PM

【0からの】

如何様な人生であれば0からやり直したいなどと思わないのだろうか。
私は0からでも人生をやり直したいと感じることがある。
そりゃあ土台無理なことは承知である。
人生に完璧を求めたところで、私はいつでも完璧とは思えない天邪鬼であるからだ。

0からの人生でも、過去のどの時代に生まれ変わっても私は今の年齢まで生きていられる気がしない。
現代よりもハードな過去に、早々にリタイアに至ると推察する。

そう考えると、私の0からでも人生をやり直したいという野望はポッと消えて失くなる。
0でなくとも今生きているのだから、悔いなく生きれば良いのだ。
私が感じたこと、思ったことを心のなかで留めるだけではなく、人生へと転嫁せねばならぬ。
例えば断食のように腹持ちを空にすると、新しい発見があるようである。
つまり脳内をリセットし、私自身と対話を行うことで新たな側面に出逢うことができるのだろうか。
様々なしがらみから0になることで、私を再構築しようではないか。

手始めに明日の仕事を休むことから始めよう。
なんてことができれば気を病むことはないのだが。


2/20/2024, 12:39:03 PM

【同情】

同情したところでではないか。
私の同情は一銭にもならないがいるか?
同情に価値はないし、甚だ傲慢にさえ感じるものだ。

同情をして自己満足に浸る人は多い。
何も解決はしないし、鬱陶しい助言なんかしてくるやつもいる。
“同じ情”になるの意味だが、違う人間なのに同じ情になるのは困難である。

『ちびまる子ちゃん』の永沢くんをイメージしてほしい。
永沢くんの家が火事になった。玉ねぎ頭の少年に同情できるだろうか?
私はできない。
彼に同情したところで燃えた家は戻ってこない。
私は正解はわからないが、少なくとも同情はしない。
まる子たちは自分たちができることは何かを考え、寄り添ったのである。
この光景は大人になった私たちにとって、見習うべき姿勢である。
ただ同情するだけならば誰にでも出来る。
大切なのはその先のどうするか?ではないだろうか。

無論どうでもいいことなら同情する。
私は私に対して同情することもある。
他人事のように考えた方が存外気持ちは楽になるのだ。
「まあこんな日もあるよね~」などと能天気なもう一人の私は私に同情し、励ます。
永沢くんに比べたら私は随分マシだなとたまに思うこともある。
玉ねぎ頭な上に家が火事とはつらいにも程があるであろう。

2/19/2024, 12:38:23 PM

【枯葉】

枯葉に思い出はないので今日は真面目なことを書く。
いつも真面目なのは言うまでもないが、今日はより一層真面目である。

枯葉剤をご存知だろうか。
ビッグモーターの不祥事で、多少知名度があるかもしれない。
私にとっては過去でも現在でも枯葉剤といえばベトナム戦争で使用されたというイメージが強い。

ベトナムのゲリラ部隊に対抗するため、アメリカ軍が空から枯葉剤を撒き、木を枯らせるという戦略である。木々に隠れて、隠密的な攻め方をするベトナム兵に対抗するためだ。
つまり多数の人間の頭の上に枯葉剤が撒かれたのと同義である。
木を枯らせるほどのものに、人体に良い影響があるわけがない。
枯葉剤の影響で今でも被害を被っている人たちがベトナムに数多くいるのだ。
私が目にしたのは枯葉剤の影響から奇形と呼ばれる姿で生まれた子どもたちである。


私は映画が好きで、アメリカン・ニューシネマに一時期はまっていた。
アメリカン・ニューシネマは、アメリカでベトナム戦争時にムーブメントとなった映画の流行である。
ベトナム戦争はもちろん、ケネディ暗殺や政治の不振も相まって、若者のヒッピー化もムーブメントを後押ししたのだ。1960年後半~1970年代にかけてである。
このムーブメントの作品は暗い。
変わりようのない苦しみから、疎外から、足掻いている若者の姿を描いている。
明るい未来が描けないアメリカの若者たちの目線は、反体制に向けられる。
世界は平和に向かっていくはずなのだが、無意味な争いはなぜか?
ヒッピーたちはただラリって理想だけを語る奴らではあるのだが、たまには良いことを言うものだなと私は感じた。


第二次世界大戦が起きてもなお、世界を率いる立場を自負しているアメリカが戦争を起こしたのだ。
人は歴史から学ぶことはないのか?
原爆を落とした国は、ベトナムの地に枯葉剤を撒いた。
枯葉剤の人体的影響は調べられていなかったのかもしれないが、想像することはできなかったのだろうか。
人は考えることが出来るのに、この被害を想像することはできなかったのだろうか。
ベトナム戦争は本当に起きて避けることができなかった事象なのか。

人は過ちから学ぶ。
学ばない者は愚者である。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」
「精神的に向上心のない者は馬鹿だ。」
私は単に学ばない者こそ馬鹿だと思う。
上に立つ者ほど馬鹿だと救いようがない。
馬鹿でも他人の意見を聞き入れたり、参考にできるならばそれは馬鹿ではない。
問題なのは自分が常に正しいと思い、愚かなことを命じる輩である。
周りはイエスマンしかおらず、こんな奴らはいつかは滅んでいく。いや、今すぐ滅びろ。
こんな人間のために犠牲になる人たちがいることを私は許せない。
人として愚かである人間は、総じて優れた部分を見出だすことはできないからである。


ちなみに私がアメリカン・ニューシネマで一番好きなのは『ディア・ハンター』である。
ベトナム戦争の悲惨さ、作品としての素晴らしさは言うまでもない。
鑑賞しきるには体力がいるが、観て損はなかろう。

2/18/2024, 12:31:52 PM

【今日にさよなら】

こんな諄い表現を使ったことがない。
さよならしなくとも今日は勝手に去っていくのであるから、挨拶は無用である。
別れ際でも「さよなら」などと私は言わない。
「じゃあね」とか「またね」が妥当であろう。

ともすると私は過去に未練があるのだろう。
「さよなら」は、相手に対する決別の意味合いを持っており、「じゃあね」とか「またね」は再開を前提にした挨拶である。
つまり「今日にじゃあね」とか「今日にまたね」というのは、やってこない今日という日の再開を願っているという、時間概念を考慮しない浅はかな言葉であるのだ。


「今日にさよなら」と言ったなら、明日には何と挨拶をすれば良いのか。
「明日におはよう」であろうか。
明日は正確には午前0時~であるから、朝日も昇っていないのにおはようは場違いである。
NHKでは午前4時頃から「おはよう」というようである。
ではそこまでの0時~4時までは何と挨拶をするのであろう。
まだ夜であるから「こんばんは」が妥当か。
だが私たちは始まりの挨拶を「おはよう」と考えなしに発している。
一日の始まりが「こんばんは」とは聞いて呆れるってもんである。

こんなときに使いやすい挨拶は「お疲れ様です」である。
社会人になると知らぬ間に毒されているこの言葉は再現性が非常に高い。
まだ疲れてもいないのにお疲れ様。
これから訪れる疲労を前提として「お疲れ様」と前もって挨拶をするのだ。
「明日にお疲れ様です」ということだ。
それならば「(陽が昇ってないけど)明日におはよう」でも扱いは同じではないか。
が、そう言ってしまえば私が考えたこの時間が無駄になるので、この結論は論外である。


こんな下らないことを考えながら、私は今日にさよならをするのである。
実に間抜けだ。お疲れ様である。

2/17/2024, 2:42:25 PM

【お気に入り】

このフレーズを聞いた刹那、私は『オリビアを聴きながら』が頭から離れない。
『オリビアを聴きながら』を聴きながら書く。

お気に入りがあると得意になる。
「これ私のお気に入りなんだ」と言うとあら不思議、急に通ぶることができるのだ。
ジャンルに分けてお気に入りのラベルを貼る。
ただ増やせばいいってもんでもない。
抱えすぎるとそれは執着となるのだ。
時折断捨離をすることで、私のお気に入りは少数精鋭となる。

お気に入りが大して周りの目を惹いていない時、少々喜ばしい。
私にとってだけのお気に入りと思えるからである。占有感を感じずにはいられない。
街を歩くと現れるお気に入りの空間。
端から見ると何ともないのだが、私にとっては自然のバランスが妙妙しく、何とも言えない心地となる。
私の感情が動くとき。
それが何時なのか私にもわからない。
わからないからこそ、お気に入りに出逢うことができた喜びは大きいのだ。


お気に入りだけの世界ならばなと常日頃思う。
このような無駄なストレスを抱え、虚しく過ごす夜が幾重も訪れることを何とか乗り越えられるからだ。
誰かと出逢いお気に入りのラベルを貼ったとしても、その相手からストレスを感じてしまうこともある。
人と付き合っていく上での障害であり、避けては通れない道なのだ。
どうしていくか私が考え、私が決めていかねばならないのだ。

「出逢った頃はこんな日が来るとは思わずにいた。」
おっと、『オリビアを聴きながら』の最後のサビが侵食してきたようだ。失礼。

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