のどかな田舎街を照らす大きな月が、バグデータの残骸を露わにし、赤緑青のランダムな幾何学模様を散らしながら、時折、ノイズが混じったように無秩序な点滅を繰り返している。
しかし、それでも日常を崩さない月下の街は、世界の終わりの始まりを微塵も感じさせなかった。
街の中央を流れる川には白くたなびく光の帯が流れ、果樹園と野菜畑の豊穣に満ちた香りの合間には、切妻のレンガ屋根の輪郭だけがぼんやりと写し出される。
私は橋の欄干からその光景をただ見つめていた。
私は、ここが『運営』と呼ばれる存在が生み出した仮想空間であることを――、そして、自分がそこに配置されているだけのNPCであることも知っていた。毎日同じセリフを告げ、同じ道を行き来するだけの存在。
――もうすぐ世界が終わる。
噂は、街を訪れるプレイヤーたちから耳にした。サーバーがウイルスに感染したとかで、仮想空間ごと消すしかないという判断らしい。ただ、プレイヤーには『運営』から新世界への移行が約束されている――という。
――では、私たちは……?
「セイナ、ここにいたのね」
後ろから明るい声が聞こえて、私は作り笑顔で振り返る。同じくNPCのマドカだ。公式には名前もない二人だが、私たちは互いに名前をつけて呼び合っていた。
「ちょっと風にあたりたくて……」
私は落ち込んだ気分をごまかすように、乱れた前髪を指先で整える。マドカは静かに私の隣に並び、欄干に頬杖をつく。
「今日で世界が終わるらしいよ――」マドカの口調は淡々としていた。「私たちも一緒に消えちゃうのかなぁ?」
素朴な疑問が漏れ出たような彼女の口調に、不安な雰囲気は微塵も感じられない。
「所詮、私たちは数字の羅列で作られて、RGBで発色しているだけの存在だから」
そう口にしたあとで、言い方が冷たかったかな――と内省する。でも、それは事実でしかなかった。
「セイナは『ノアの方舟』って聞いたことある?」
「旧約聖書に出てくる救済の船よね」
唐突なマドカの問いかけにそう答えると、彼女は無言で頷く。
「それもそうなんだけど、私が言ってるのはプレイヤー向けの『移行システム』のこと」
「たしか、彼らには『新世界』が用意されてるとか……」
私はプレイヤーたちの会話を思い返していた。
「もしその船に乗ることができたら、私たちも新世界で生き続けることができるのかな?」
マドカの口調に期待は感じられず、それは『翼があれば飛べるのか――』という問いに似ていた。
「確かに移行するのもデータだからね」
私もなるべく期待はしたくなかった。期待が大きくなるほど、絶望も大きくなるから。
でも、もし本当に『方舟』に乗ることができるのなら、私は――NPCの呪縛から解放されるのだろうか。
「ねぇ、あれ……」
マドカが欄干から身を乗り出しながら、川の水面を指さして言う。
「なんか、光ってる」
私はマドカの指先を追うように、川べりへと降りていく。何とか手が届きそうな位置にある玉虫色の『それ』を取り上げる。しわを伸ばして月光にかざすと、表面に光の三原色が次々と移り変わっていく。
――優先搭乗券――。
紙切れに書かれた文字に、思わず私はマドカと顔を見合わせる。マドカの表情が明るくなっていったのは、月明かりのせいではない。
「これってまさか……」
世界の終焉はあと数時間後に迫っていた。
「行かなきゃ、間に合わなくなる!」
マドカが私の手を引いた。搭乗場所までの道のりは思いのほか長い。
――どうか、この期待が絶望に変わりませんように。
私はそう祈りながら、先ほどよりもひどく崩れた月の下を、マドカと二人必死で駆けていく。
#Red, Green, Blue
「あんた、またフィルター掃除サボってるでしょ」
リビングに入るなり、姉は開口一番そう言った。
「えっ、バレた……?」
リビングの床にドサリとカバンを投げ出しながら、私は思わず笑う。
「空気がどんよりしてるもん。大人の嗅覚なめんじゃないわよ」
姉は部屋の奥まで進み、カーテンと窓を大きく開け放つ。高い位置から陽の光が差し込み、涼しい風が部屋いっぱいに流れてくる。
大学生活も半年が過ぎ、ひとり暮らしにも少し慣れてきた。だけど、この部屋に帰ってきて玄関を開けたときの、あの暗くてしんと静まり返った感じには、いつまで経っても孤独を感じてしまう。
虚無感の中でベッドに沈み、スマホをだらだら眺めはじめる。すると、すぐに時間は過ぎていき、ため息と罪悪感で次の朝を迎える。それが私の『日常』になりつつあった。
そんなことを、わざわざ姉に言ったことはないが、きっと姉は全部お見通しなんだろう。
姉は部屋の隅に置かれた空気清浄機のカバーを外す。露わになったフィルターは、予想以上に灰色にくすんでいた。
「ほら、見なさい」
姉が突き出してくるそれを見て、私は思わず顔をしかめる。
「うわ……ほんとだ……」
姉がすぐ後ろに置かれた掃除機に手を伸ばしながら言う。
「雑巾濡らして持ってきて。あと、古いハブラシも」
洗面所に向かう背中から、掃除機が動く音が聞こえてくる。ときおり大きなものを吸い込んだようなゴォという音に変わる。
私は、引き出しから比較的古めなタオルを取り出しながら、ハブラシはどうしようかな――と考える。
私が洗面所を出ると、姉はゴミ箱を抱えてキッチンにいた。フィルターはシンクに立てかけられ、掃除機は元の場所に収まっている。
昨晩からテーブルに放置されたコンビニの包装ゴミが、姉の手でゴミ箱に放り込まれていく。
「いいよ、あとでやるから……」
私は少し恥ずかしくなって、頭を小さく掻きながら姉にタオルとハブラシを渡す。
「お母さんが見たらきっと発狂するな……」
と姉が母によく似た小言を漏らす。
「あと、使い古しのハブラシは一本くらいとっときな。思ったより万能だから」
今朝まで使ってたハブラシを持ってきたのは、姉にすぐバレた。
◆
「ほら、きれいになった」
しばらく姉がフィルター掃除と格闘したあと、達成感に満ちた声で言う。
スイッチをいれると、空気清浄機は明らかに今までより呼吸がしやすいといったように空気をきれいにしていく。心なしかランプの緑色も爽やかに見える。
「ねえ――」姉がベッドに腰を下ろす。「あんた、気分転換ちゃんとできてる?」
「気分転換?」
私がオウム返しをすると、姉は顎で空気清浄機を指し示す。
「そう。心ってのもこいつと同じで、弱音とか不安とか、ため込んだらすぐ黒くなるんだから。たまには出かけたり、愚痴ったりして入れ替えなきゃ」
やっぱり姉にはすべてを見透かされている。私は恥ずかしいような、悔しいような――それでいて嬉しいような複雑な気持ちがして、首を横に振りながら視線を床に落とす。
「……もう少し片付けてから、駅前のカフェにでも行く?」
私が照れながらそう言うと、姉はニッと笑って「カワイイ妹めっ」と言いながら、私の頭をわしゃわしゃ撫でた。
その後、二人で駅前のカフェに出かけて、ケーキとコーヒーをお供に他愛もない話で盛り上がった。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。心のフィルターが洗われたように、胸の中に溜まっていた重さがいつの間にか消えていた。
その日の夜は、なんだか気分がスッキリしていて、スマホに溺れる時間も心なしか短かった。空気清浄機の静かな作動音を子守唄にして、いつもより深い眠りにつく。
#フィルター
※ゾンビ系ホラー。微グロ&流血表現バッドエンド注意報
突如一帯を襲ったマグニチュード八・五の大地震は、周辺地域に甚大な被害を引き起こした。
しかし、俺とタツヤが所属するバイオ研究所においては、建物の損壊よりも遥かにヤバい事態が巻き起こっていた。
この研究所で秘密裏に開発が進められていた生体細胞の活性化を促す薬品。地震により飛散した開発途中のこれらの薬品は、三十分というわずかな時間で、研究者たちを本能のままに人を喰らう生きる屍、いわゆるゾンビへと変えていった。
とにかくこの研究所から脱出しなければ。タツヤに手を引かれるように出口を目指していた俺は、彼の破れた白衣の隙間から粘り気のある赤黒い膿が吹き出しているのを見て、無意識に手を払い除けた。
そしてすぐに「ごめん、これは……違うんだ……」と弁解が口に出る。しかしタツヤはそれどころではないようで、そんな俺の後悔など気にも留めていなかった。
「これって……、まさか……」
タツヤの表情がみるみるうちに恐怖と不安へと変わっていく。そして、突然何かに気づいたように、声を荒らげながら俺を突き飛ばした。
「俺から離れろ! 俺はいいから、ここからはお前一人で逃げるんだ!」
あれからほんの数十秒の間に、赤黒い膿はタツヤの片腕を覆い尽くすように侵食していた。俺は腰から地面に倒れ込む。擦りむいた手のひらにじんわりと血が滲む。
「俺にはお前を見捨てるなんてできないよ! 俺たち、仲間だろ!」
尻もちをついたまま、俺はタツヤにぶつけた。彼は震える声でそれに応える。
「嬉しいこというじゃん……。でも、俺はもうすぐ自分……じゃなくなる。そうなったら、俺は……お前を傷つけるかも……しれない……」
彼を侵食する膿が、首元から顔の方へと広がるにつれて、脊髄への条件反射のように体をビクリと震わせる。
「俺、それでもいい。お前がゾンビになるんなら、俺も一緒にゾンビになってやる」
俺のその言葉に嘘や同情は一切なかった。
「ふざへんな……」タツヤの顔面はその半分が膿に侵され、徐々に呂律が回らなくなっていく。「おま……おまえ……は……ひ……、ひき…………」
タツヤの瞳孔が光を失ったように開いていく。もはや彼の口から発せられるのは言葉ではなくなっていた。
それまで縮まらなかった二人の距離が、少しずつ近づき始める。それは悲しくも、タツヤが俺にゆっくりと歩み寄っているからだった。
今や彼を動かしているのは本能だけだ。しかし、その本能が求めているのは、俺の感情や魂の類ではなく、もっと肉々しく、生々しいもの。
「俺たちは仲間だ。お前が行くところに、俺も行く……」
聞こえているかもわからないタツヤへそう告げて、俺は手のひらをぐっと握りしめる。
ふと、手のひらの違和感に気づく。先ほど手のひらを擦りむいたはずだ。なのに傷口から膿が出ることもなければ、赤黒く変色すらしていない。
俺はそこで全てを悟った。そしてそれは悲しい現実を突きつけてくる。
「ごめん、俺……、お前の仲間には……なれないみたいだ……」
図らずも俺の体の中で、薬は反応を示さなかった。原因は分からないが、俺はゾンビにはなれない。
俺はこちらに近づいてくるタツヤを両手で抱きしめる。食い込むように張り付くタツヤのただれた肌は、じんわりと熱を伝えてくる。
俺は、彼の言葉にならない唸り声を、この胸でしっかりと受け止める。
俺はお前と同じにはなれないが、今のお前を抱きしめられるのは、この世界に俺しかいない。
俺は自分の特異な体質を呪いながら、同時に感謝した。
#仲間になれなくて
君を想う日がいつも雨なのは、
きっと君があの日、雨の妖精になったからだろう。
雨の日にだけこっそり地上に降りてきて、
そうでない日は雲の上からこちらを見下ろしているんだ。
俺は強さを増した雨を避けるように喫茶店に入った。
店内を見渡すと、片手で数えられるほどの客しかいなかった。
窓際のソファ席を選んで座る。理由は単純だ。
窓を打つ雨の音が聞こえている方がいい。
メニューも見ずにブレンドコーヒーのブラックを注文する。
読みかけの小説があったが、鞄から取り出すことはしなかった。
雨の日は集中力が続かないのが分かっているから。
彼女と約束した時間が来るまで、窓の外に思いを馳せる。
つくづく俺は未練がましい最低な野郎だなと思う。
こうして彼女の到着を待ちながら、心の中では君のことを想っている。
もう忘れなければと想う日に限って雨が降る。
まるで君が俺を引き留めているように。
君に別れを告げたあの日も雨が降っていた。
降りしきる雨に逆らうように君は消えていった。
その日からしばらく続いた雨を、秋の長雨のせいだと言ってしまうには、
あまりにも都合の良すぎる示し合わせだった。
少し時間が立って、ドアベルがカランコロンと音を鳴らす。
彼女かと思って振り返るが、音の先には誰の姿もなかった。
ただ、流れ込んできた外の空気が、湿気と同時に気配のようなものを纏っている気がした。
とても懐かしい気配。温かく優しさを持った馴染みのある気配。
――君なのか……?
俺は、その気配を纏った虚空に問いかけていた。
返事をするように、風に煽られた雨粒がザザッと一度窓を打ち鳴らす。
それを俺は都合よく解釈する。
あの日、俺を置いて先に逝ってしまった君。
雨の降る火葬場で、骨だけを残して天へと消えた君。
――俺はどうすれば君を忘れられる?
そう問いかけても、君からの返事はない。
君を忘れるために登録したマッチングアプリで
君に似た彼女を見つけて運命を感じた。
アプリに登録した日から彼女を見つけるまでも、
思えば、あの時のような長雨がつづいた。
――君がそうさせたのか?
返事の代わりにドアベルが鳴る。君に似た彼女だ。
丁寧に巻かれた傘を傘立てに刺し入れ、わずかに濡れたコートを手で払いながら、店内を見渡している。
俺はゆっくり手を上げて、彼女に存在を示してみせる。
ニコリと微笑んで、ゆっくりこちらへやってきた彼女は、
俺の向かいにそっと腰掛けて、初対面の挨拶を交わす。
「雨、大丈夫でしたか?」と俺が尋ねると、
「私、雨女なので慣れてます」と冗談めかして応える。
実際に話してみると、彼女は雨上がりの空のような人だった。
どこか雨の余韻を感じさせる明るさを持っていた。
俺の心を覆う傘が丁寧に畳まれ、巻き取られていくように、
次第に俺は彼女の奥ゆかしさと明るさに魅了されていった。
しばらくの会話のあと、ふと窓の外を見る。
雨粒は薄くなり、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
「雨、やみそうですね」と彼女が言い、
「ああ、晴れそうだね」と俺が応える。
徐々に青さを増していく空から、雨と君が静かに遠ざかり、柔らかい光が広がっていく。
#雨と君
公民館の団欒室。殺風景な壁にA4の色画用紙4枚を使って貼られた『川柳教室』の文字は、昨晩、慣れないパソコンを使って、夫に教えてもらいながら私が作ったものだ。
入口に貼られた『町民ふれあい教室~川柳で自分を表現してみよう~』のポスターに『講師:志田聡美(しだ さとみ)』という私の名前。今日は全十二回ある講義の記念すべき第一回目。
結婚して二十年、専業主婦の片手間で始めた俳句歴まだ三年目の私が、まさか『先生』なんて呼ばれる日が来るなんて、人生は本当にわからない。
部屋の真ん中で、円形に並んだパイプ椅子に、カラフルな短冊と百円ショップで買った筆ペンのセットを順番に置いていく。
この部屋に入った時に、パイプ椅子はすべて直線的に並んでいたけれど、どうせならみんなが向かい合っていた方がいいんじゃないかと思って配置替えをした。
「うんうん。なんか、様になってる気がする」
このふれあい教室の立案者で、俳句仲間でもある町内会長から『九月に一枠空きがあるの』と話をもらったのが今年の六月。
気が付けば、あっという間の三か月だった。
初めこそ、こんな私に講師なんて務まるのかしらとも思ったが、『聡美さん、お話もとてもお上手だから』と押し切られた形でこうして今日を迎える。
いざ準備に取り掛かってみると、案外楽しいものだった。
まず、毎週欠かさず見ていた公共放送『俳句講座』の見方が大きく変わった。
いつもは投稿された句やテクニックに感心していた私が、『あら、上手な褒め方』『今の言い回し、とてもステキ』と、いつしか解説の先生の話し方に関心が移っていた。『教える』というより『寄り添う』という雰囲気に近い彼女の姿勢が気に入った。
心に残った言い回しはメモ帳にしたためておいて、掃除や洗濯、料理をしながら鼻歌の代わりに口ずさむ。
導入の挨拶は、あの先生の口調を少し真似してみようかしら。結構有名な方だし、俳句好きにはつかみとしてばっちりだと思うの。
あと言葉尻に小さく頷く癖も取り入れて――。
円形に椅子を並べるアイデアも、カラフルな短冊も、番組の中で、高校生たちがテーマに沿って歌を詠む回でそうしていたから。
そう。私にはこの『俳句講座』がすべてのお手本だった。
私は準備に漏れがないか、団欒室をひと通り見渡したあと、腕時計に視線を落とす。
講義開始まであと十五分。もうそろそろ生徒さんもやってくる頃だ。
果たしてどんな人が生徒としてやってくるのかしら。もしも私より上手な人ばかりだったらどうしよう。
不安がないかと言えばウソになるけど、期待の方が大きかった。
そこは先生の褒め方を参考に、持ち前のやってみよう精神で何とか乗り切れるはず。
私は誰もいない教室の真ん中で、気合を入れるように胸の前で拳を握り、大きく声を張り上げた。
「志田聡美、四十八歳、頑張るぞ!」
私の声とほぼ同時に、ガラガラと扉を開けて年配の女性が入ってくる。
女性は一瞬びくりと驚いたような表情を見せたが、「まぁ、元気な川柳ですこと」と微笑んだ。
窓から漏れ入る初秋の麗らかな日差しが、空気の中に漂う照れ臭さを包み込みながら、殺風景な団欒室が徐々に温かさを増していくような気がした。
#誰もいない教室