学校でちょっとした噂の都市伝説がある。
『八月の精霊』
街の片隅にある小さな公園の藤棚の下で、八月三十一日の午後五時に願い事をすると、翌日それが叶うというのだ。
僕はそんなオカルトじみた話は信じていなかったが、クラスメイトのハルカはめちゃめちゃ信じていた。
夏休みも終盤に差し掛かった頃、ハルカから『八月の精霊』に会いに行こうと誘われる。どうやら精霊は恥ずかしがり屋で、一対一だと姿を現さないらしい。
僕以外の友達数人にも声をかけたらしく、八月最後の日の公園には、僕とハルカを含めて五人の同級生が集まっていた。
ハルカ、マサキ、ユウトの三人は噂を信じていて、僕とミカは半信半疑だった。
時間は午後四時四十五分。
「みんな何をお願いするの?」
とマサキが問いかける。
「オレはね、明日になったら宿題が全部終わってますように」
ユウトの願いにミカが思わず吹き出す。
「なにそれ、もったいない」
「ハルカは?」
俺が問いかけると、ハルカは人差し指を唇の前に立てながら言う。
「こういうのは言ったら叶わないのよ」
ハルカの言葉にユウトは肩を落として「そういうのは先に言えよな」と嘆いた。
「シンヤは何かお願いするの?」
ミカがこちらを見る。
「僕は、特に考えてなかったけど……」
僕はハルカの顔をチラリと見る。
「へぇ……」
ミカが変な笑みを浮かべる。
「いよいよだ」
マサキがみんなを藤棚の下に呼び寄せて、両手を合わせる。
秒針が真上を向いた瞬間、遠くで午後五時を知らせるチャイムが鳴る。
僕は半信半疑ながらも『明日以降もハルカと遊べますように』と願った。
翌日のホームルーム。担任が両手をパンパンと叩きながら、みんなの注目を前方に向ける。
「ほーら、みんな前を向いてください。中園さん、ちょっと前へ」
みんなの視線がハルカに集中する。ハルカは席から立ち上がると、恥ずかしそうに教壇の隣へと歩いていく。
「先日の出校日にお話した、中園さんの転校の件ですが……」
担任の声で顔を上げたハルカは顔を赤らめて笑顔を見せている。
「親御さんの都合で、来年に延期になりました」
クラスの何人かがガッツポーズをする。
ハルカと目が合ったが、すぐに恥ずかしそうに目をそらす。僕も窓の外に視線を向けながら思わず笑みがこぼれる。
「あの噂、続きがあるらしいの」隣の席のミカが言う。「願いが叶うのは、二人以上が同じ願い事をした時なんだって」
僕は「へぇ」と短く返事をする。
空にはまだ夏のような積乱雲がもくもくと立ち上がっていた。
#8月31日、午後5時
僕は彼女に送るメッセージを途中まで入力して指を止める。変なことを入力してないか、言葉が足りなすぎやしないかと不安になっているところに、僕の中の現実主義な部分が話しかけてくる。
「おいおい、まずは結論からってのが定説だろ? だから、冒頭は『一緒に住みたい』だ。そして、相手を納得させる条件が必要だ。家賃はこっちが出す。部屋は別々にするし、いま住んでる家より職場も近くなる」
そこに直感的な部分が口出しをする。
「ちょっと待ちなよ。そんな不動産チラシみたいな誘いで一緒に住みたくなると思う? 『一緒に住みたい』だけでいい。そのあとはあまりに現実的すぎるよ」
「それだけじゃ相手は納得しないだろ。もっと納得できる理由がないと」
「彼女を想う気持ちとか、彼女のこちらに対する気持ちとか……。あるでしょ、そういうの」
「ふん、そんな不確実なものに意志を委ねるなんてバカバカしいな。もし、相手にその気がなかったらどうする? 傷つくのはお前だぞ」
「傷つきたくないのは分かるけど、家賃とか持ち出されたら、まるで興冷めじゃない」
「じゃあ、それ以外に相手を納得させられる条件はあるのか?」
ふたりの口論がヒートアップする。僕はそれを遮るようにふたりに告げた。
「僕はただ、帰る家に彼女がいてくれたらうれしいんだ」
「いや、それはマズイ。あまりに利己的だ。まるで『俺のために家にいろ』って言っているようだ」
「それはあまりに曲解だよ」
再びふたりの話は平行線を辿る。
僕は、ふたりの意見を考慮しながらスマホの画面上に指を動かす。
『結論から言うと、一緒に住みたいんだ。
帰る家に君がいてくれると嬉しいから。
でも、誤解しないでほしい。僕は仕事をしてる君が好きだから、家にずっといてくれってことじゃないんだ。
職場までも今の家より近くなるし、家賃に関しても君に負担をかけないようにするよ。
僕は君と一緒に暮らしたいんだ。考えてみてほしい』
そこまで文字を打ちこんで、僕は大きくため息をつく。
「彼女をもっと信じてあげたら?」
直感的な部分が言う。
「言葉足らずで誤解されたらどうする?」
現実主義の僕が問う。
「彼女はそんな子じゃないよ」
「お前は楽観的すぎる。誤解されてからでは遅いんだ」
僕の中でふたりが言い争う。
「ふたりともケンカしないで」
僕は直感を信じて『一緒に暮らさないか?』の十文字だけで送信ボタンを押す。
「おい、本気か? 俺は不安で仕方がない」
現実主義の部分がうろたえる。
「うん、それでいい」
直感的な部分が大きく頷く。
しばらくして彼女からの返事。
『突然のことでびっくりだけど、うれしい』
僕は小さくガッツポーズをする。そして、僕の中の現実主義な部分に声をかける。
「ここからは君の出番だ。僕と彼女、ふたりの不安を埋める作業は君にしかできない」
僕の中にいる『ふたり』は全く正反対だけど、どちらかが欠けてもいけない。僕は、彼女との『ふたり』の関係を、僕の中の『ふたり』と一緒にこれからも続けていく。
#ふたり
もしもあの日、恵美子が無理やりにでも旅行に駆り出してくれなければ、私は今でも『海は青く、風は無色透明だ』と思っていたかもしれない。
恵美子が商店街の福引で沖縄旅行を当ててきた。
彼女は「人生の運をすべて使い果たしたみたい」と驚きながらも、どこかばつが悪そうにしていた。もともと出不精な私が、数年前に腰を悪くしたことで、二人の間に旅行の話題が上がることはなかったからだろう。
「私のことは気にせず、友達でも誘って行ってきなさい」
「誘うようなお友達もいないもの。行くならあなたと行きたいわ」
「君に迷惑をかけるだろ」
「何言ってるんです。私が支えますよ」
いつもよりも押しが強い恵美子に根負けする。結婚して二十余年、ともに五十を過ぎていたが、二人とも飛行機での旅行はそれが初めてだった。
飛行機を降りた瞬間、湿度の高い熱気にやられた。慣れない飛行機での疲れもあり、早々にホテルのチェックインを済ませ、少し休憩を取ることにした。
部屋に入った途端、恵美子は楽しそうに声を上げる。
「ねぇ、あなた。海の向こうの方をフェリーが横切っていくわ」
その後も彼女は、海の向こうに小さく見える尖った島、白い砂浜、背の高い入道雲――と、興奮気味に窓の外の風景を言葉にしていく。ふと、声色が変わる。
「もう、あなたったら。せっかくの沖縄なのに、海を近くで感じなくてどうするの?」
私がベッドの端に腰掛けて、クーラーの下で項垂れているのを見かねたのか、恵美子は私をベッドから引き剥がすように手を引いた。
もはや私の杖は、地面を打つ隙さえ許されず、気がつけば、潮の香りは濃くなり、波の音も近くなっていた。恵美子があの木陰を見つけてくれなければ、私は浜辺で茹でダコになっていたに違いない。彼女と二人、木陰に腰を下ろすと、優しい風が顔の横を吹き抜け、それまでの暑さが嘘のように涼しくなった。
「海の青って一色だけじゃないのね。不思議だわ。深いところはとても暗い色をしていて、浅いところは緑色に見える。海面がキラキラ光って、まるでエメラルドの宝石がたくさん浮かんでいるみたいだわ」
私はサングラスの向こうに広がる景色に思いを馳せた。私が見ている光景が、恵美子が見ているのと同じ風景だったらどんなにいいだろう。
若くして光を失ったこの目の奥に映るのは、彼女が事細かに語ってくれる言葉のみ。潮の香りや波の音と重なりながら、頭の中で映像が出来上がっていく。
白い砂浜の向こうに広がるエメラルドグリーンの海、その向こうで濃い青色をした辺りにはフェリーが行き交い、天を貫くような入道雲が盛り上がる。そのすべてを照らす太陽はきっと眩しくて、すべての色をより鮮やかにしているに違いない。
「あなたと来られてよかったわ」
耳元で囁く恵美子の声に乗って、私の心の中の風景に淡い桃色をした風がふわりと吹き抜けていった。
#心の中の風景は
一年ぶりに訪れたその山羊小屋に、もう山羊はいなかった。
あれは去年の夏、私が庭で雑草を刈っていた時のことである。
背後で草を踏む音がして振り返ると、そこには灰色の作業服を着た見知らぬおじぃが立っていた。
本土から沖縄に越してきて、念願の古民家暮らしを始めてから早五年。ようやく沖縄の風土にも、人々のユルさにも慣れてきたころだった。しかし、庭に入って来られるのは初めての経験で、さすがに驚きが勝る。
「えぇ、おじぃ。勝手に入ってきたらダメでしょ」
私がそう言うと、おじぃは悪びれもなく私の傍らに置かれたポリ袋を指差して言った。
「なんで、いいさぁ。その草、どうせ捨てるんでしょ。だったらおじぃに、ちょっと分けてくれないかなぁ」
私はおじぃのあまりにも堂々とした立ち居振る舞いに、それ以上返す言葉がなかった。
「いいけど……。でも、こんな草、どうするわけ?」
「あぁ、この近くに公園があるさぁね。そこのヒージャーたー(山羊たち)にあげるわけよ」
おじぃが庭の外の方を指差す。その方角には確かに少し大きめの公園があったような気がする。
「あれは、枯れたのでも何でも食べるから、こんなのがうれしいわけさ」
私はこんな雑草でよければ、どうぞどうぞと、おじぃにポリ袋を差し出す。
私は翌日、山羊のことが気になって公園へと寄ってみた。
夏真っ只中の午後三時。強い紫外線に肌がジリジリと焼け、辺りに漂う熱気と湿気でじめっとした空気が焼けた肌を包み込む。
地面から沸き立つ陽炎に草の香りが乗っかったような、モワッとした熱気が鼻の奥を通り抜ける。ただ立っているだけなのに、汗はタオルで拭っても止めどなく溢れてくる。
公園の奥の方、大きなグラウンド脇でひっそりと佇む簡素な小屋に、三匹の白い山羊が確かにいた。
鉄柵越しに見える山羊たちは、足元の草を上下の歯で摩り潰すようにハミハミしていたが、私の姿に気づくと、ゆっくりと立ち上がって顔を近づけてきた。
かわいい……。短い角に、艶のある白い毛。私は思わず山羊の頭に手を伸ばす。山羊はくすぐったそうにメェェ〜と鳴いた。
そして、あれから一年。
私は久しぶりにやってきたその公園で、空っぽの山羊小屋の前に立っていた。
近くを通りかかったおばぁに、山羊の行方を尋ねてみると、どうやら別の公園に移されたらしい。
「この辺にはハブが出るからね。ヤギの安全を考えたら、それが良かったんだはずよ」
おばぁの言葉に少しホッとする。
夏のじめじめとした暑さのなかで、青々と茂った草が空っぽの山羊小屋を囲む。それらが放つ強く青い匂いは、とてつもなく大きな生命力に満ちあふれていた。
朝、目を覚ました僕はいつものクセで「学校なんてなくなればいいのに」と呟いた。
そしたら、学校があった場所は大きな空き地になっていた。
校門の前で保護者たちと警察が揉めている。どうやら中にいた友達や先生も学校と一緒に消えてしまったらしい。
「朝からわぁわぁうるさいな」
頭の中で思ったら、目の前の集団がポンっと消えた。
僕の心に重たい何かがドスンと落ちる。
「おいポン倉、どうなってんの?」
遅刻してきた飯塚が僕の後ろでポカンとしている。
ポン倉というのは僕のあだ名だ。『ポンコツの大倉』だから『ポン倉』。
こんなあだ名もなくなってしまえばいい。
「おい、聞いてんのかよ」
飯塚が語気を強める。僕は試しに飯塚へと尋ねてみた。
「ねぇ、飯塚くん。僕のこと呼んでみてよ」
「な、なに言ってんだよ。あの……、ほら、あれだよ……」
歯切れが悪い飯塚の口からは、僕の本当の苗字すら出てこない。また心の中にポツンと悲しみが落ちる。
「もしかして、忘れたの? 大倉だよ、大倉」
飯塚は僕の問いかけに応える間もなくポンっと消えた。
心の中に今までで一番大きな衝撃がして、途端に自分のことが怖くなった。
もう何度も自分なんていなければと考えるのに、自分だけはいつまでも消えなかった。
僕の考え癖が悪さをして、周りのものがどんどん姿を消していく。その度に心が沈むように重たくなる。
僕は消えてしまったものが、どこかで姿を現していないかと、あちらこちらを探して回った。でもどこにも見当たらなかった。
「ここにあるよ」
後ろで声がして振り返る。目の前に真っ白なワンピースを着た少女が立っている。
空間を切り裂いたみたいに黒い穴が、少女の手元にぽっかりと開いていた。
少女が黒い穴に手を差し入れると、僕の胸のあたりがギュッと締め付けられる。
「あなたが心で『いらない』と思ったものは、あなたの心の奥底の、あなたも触れられない場所に落ちていったの」
少女は静かにそう言った。
「どうすれば元に戻せるの?」
「消えてなんかいないわ。あなたの中で消えただけ。あなたが見ないようにしただけ」
そう言い残して少女は消えた。
「ポン倉、大丈夫か」飯塚の声で我に返る。「お前ってほんとポンコツだな」
青い空を隠すように飯塚の顔が視界を覆っている。
鼻の奥がじんじんと熱を持ったように痛い。右手で鼻を抑えると、手のひらが赤く汚れた。
「立てるか?」
飯塚に手を引かれて立ち上がる。
傍らに転がったドッヂボール。
友達の心配そうな視線。
僕は涙をごまかすように目をつむる。
『もういらないなんて考えません。ここにあるのは全部僕の大切なもの。だから、どうかひとつも消さないでください』
心の中であの白い少女に祈った。
#ここにある