昨日、見ちゃったんだよ。
僕達の仲間が辛い思いをしてるのを。
ほんとうにこういうのを見ると、
僕達と君達がもっと理解し合えたらいいのに
って感じるね。
だってそうだろ?
君達はとても賢くて、
僕達にはない知恵も持ってる。
それなのに、僕達の困り事には
全然気づいてくれないじゃないか。
いや、それは言いすぎたな。
中には気づいてくれる人もいる。
言葉の壁なんてものがあったとしても
それは思いやりでなんとかなるもんさ。
要は気の遣いようってことでさ。
もちろん、君達が僕達のことを
大切に思ってくれてるのは分かってるよ。
君達の足もとにある文明の利器ってやつが
君達の基準に合わせて作られていて、
僕達にとってはただの足枷でしかないことも知ってる。
だけど こういう日は
静かに家にいたほうがいいと思うんだよ、僕は。
君たちも一度、素足のままで歩いてみればいいのさ。
そうしたら僕達の辛さがわかるはずさ。
だって、この暑さだよ。
アスファルトの表面は50度だとか60度だとかっていうじゃないか。
そんなところを素足で歩いてごらんなさい。
2秒でお手上げさ。
別に散歩に行きたくないわけじゃないんだよ。
家が快適すぎるのは間違いないけどさ。
まぁ、こんなにワンワン吠えたところで、
どこまで通じているのか、分からないけれどね。
#素足のままで
その男は上を目指していた。
雲に囲まれた真っ白な空間の中、天へと続く階段を一段ずつ上がっていくのを、俺は傍目から見つめていた。
男の視線は遥か上方の眩い光に向かい、それでも確かに踏み出される足とは対照的に、彼の視線から外れた不確かな足場には、見ているこちらがハラハラさせられる。
俺がそう思うのは、この階段がとても不安定で崩れやすいことを知っているからだ。一歩を踏み出す度、足場は小さく揺れながら沈み、一部がほろほろと崩れていく。
それでも男は階段の先にある光に向かい続けている。
数段上がったところで、ふと男の視線が足元に向かう。周りを覆う雲が次第に灰色に変わっていく。恐怖とはそれを認識した時点から大きくなるものである。
男の視線が小刻みに揺れているのが分かる。一歩を踏み出すまでの時間が、先ほどより明らかに長くなっている。
男の額からは汗が滴り、足場の硬さを確かめるように小さくつま先を落としては、ビクリと体を震わせて再び足を上げる。
それでも意を決して足を下ろした男は、地に足がついた感触に大きく胸を撫で下ろす。
次第に、男の視線は足元から離れなくなった。雲はもはやどす黒く、先ほどまで見つめていた遥か上方の光は男の眼中になかった。男はただただ足元の恐怖に身を震わせる。
しかし男の口元は僅かに緩み、口角が上がっている。男はもはや、恐怖を楽しんでいた。
いつ崩れるとも分からない不確かな感触。生きるか死ぬかの瀬戸際。崩れた先に待つものへの興味。
男の瞳孔は完全に開き、口の端は頬が引き攣るほどに上がりきっている。足場を踏みしめる度に体を震わせ、快感に満ちた絶叫を上げる。
男の歩みはもう止まらない。
『もう一歩……あともう一歩だけ、この快感を味わわせておくれ……』
#もう一歩だけ、
改札にICカードをタッチして駅を出ると、そこには見覚えのない光景が広がっていた。
都会のど真ん中のはずなのに、視界に占める空の面積が大きかった。あたりを見渡して、それが十階建てより高い建物がほとんど見当たらないからだと気づく。ふと目に入った商業ビルの壁には『ビアガーデン』『大バーゲン』と書かれた垂れ幕がいくつも垂れ下がり、屋上からは気球のような丸い物体が同じく垂れ幕を下げて、いくつも打ちあがっている。
上部が台形のように少し角ばった車が走る道路の中央を、二本の鉄のレールが走り、その上を小型の電車がこちらに向かって走ってくる。
『あれって、路面電車だよな。なんで、こんなところに』
今から50年ほど前までは、この辺りにも路面電車が走っていたという話を親父から聞いたことがあった。二十二歳の俺にとっては、噂や書籍でしか見聞きしたことのない光景に、しばらく動揺して言葉を失った。
『もしかして、タイムスリップってやつか?』
目の前の光景を写真に収めるため、スマホを取り出そうとポケットを探るが、あるはずの感触がそこにはなかった。
「マジかよ……」
俺は焦った。16時から営業先での商談だというのに、こんなところで油を売っている場合ではない。そもそも、スマホがないので、いまが何時なのかもわからない。時間を確認できるものがないかとあたりを見渡すと、駅前広場の中央に時計を見つける。15時48分。
俺はとりあえず、来た道を引き返し、再び改札を通ろうとするが、ICカードを読み取れる部分はない。
仕方なく財布から夏目漱石の顔が描かれた千円札を取り出し、改札脇の売り場で切符を買う。久々に手にした紙の切符になぜか少しテンションが上がる。
切符を改札機に通して奥へと進む。その瞬間、駅構内に入るはずの視界が明るく開けた。
目の前には先ほどと同じ台形の車が行き交い、道路を挟んで向かい側に『本市場大通り』と書かれた看板と、その下に商店街が続いている。
俺は何が起こっているのか理解できず、思わず髪をくしゃくしゃと掻きむしる。
「いったい、どうなってるんだよ」
とにかく駅の中に戻ったところで帰れないとなれば、前に進むしかない。俺は道路を横切って商店街へと足を踏み入れた。
見知らぬ街のはずなのに、どこか懐かしい感覚。どうやらまだしばらく、この不思議な世界は続きそうである。
#見知らぬ街
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『カクヨム』と『note』で、明日(8/25)にはこの続きを【後編】として公開する予定です。
よかったら『結城斗永』で検索してみてください。
『怒りを買う』っていう言葉があるけど、もし本当に怒りを買ってくれる人がいるのなら、まさに今、この胸の中でくすぶっている怒りは、いったいいくらで売れるんだろう。
優太はそんなことを考えながら、団地の片隅にある小さな空き地でサッカーボールを蹴り上げた。ボールを追いかけるように見上げた空には、先ほどから水気を多く含んだ黒っぽい雲が立ち込め、小さなゴロゴロという音が、文句を垂らすようにどこからか響いている。
近づいている嵐のせいで、明日の球技大会はどうやら中止になりそうだった。
勉強ではどうやったって勝てないアイツに、一泡吹かせてやるはずだったのに。好きなあの子に、アイツより自分のほうがカッコいいって示すチャンスだったのに。
優太は怒りに任せてもう一度ボールを蹴り上げる。湿気に濡れた草で軸足を滑らせて足先が狂う。コントロールを失ったボールは、雲の隙間に届きそうな勢いであらぬ方向へと飛んでいった。
――ガシャン。
団地の二階から聞こえてはいけない音がする。ガラリと窓が開く音がして、遠くでおじさんのドスの利いた怒鳴り声がする。
「ヘタクソが! 余所でやれや!」
ヘタクソじゃないやい、滑っただけだ――と優太は心の中で子供じみた言い訳をして、咄嗟に逃げるように空き地をあとにする。でも、なんだか遠くから雷様に見られているような気がして、足が止まる。
優太は、急に自分のズルさが恥ずかしくなって、おじさんの家まで謝りに行く。おじさんは「二度とすんなよ」とだけ言って、サッカーボールを優太に返すと、特にそれ以上咎めることはしなかった。
また遠くでゴロゴロと音がする。
――もうすこし鍛錬が必要だな。
雷様がそんなことを言ってる気がして、優太は込み上げてくる恥ずかしさに思わず苦笑いをした。
#遠雷
深夜二時を過ぎても尚、煌々と夜空を照らしている街の明かりのせいで、空には星ひとつ見ることができなかった。あの闇の先には、本当に宇宙というものが存在しているのか、果たしてそこには本当に地球以外の星があるのだろうか、と疑いたくなる。
あの夜、皮肉めいた口調で「優しいのね」と言い放った君の心は、まさにいま目の前に広がる夜空と同じように、深く、暗く、冷たい空気で満たされていたに違いない。
片側三車線の幹線道路には、夜中だというのに多くの車が行き交っていた。この時間の彼らにとって、制限速度なんていうものは無縁のようである。車が通り過ぎていくたびに、湿った空気を含んだ風が歩道を歩く俺の右頬をはたいていく。
あの夜、いっそ頬をはたかれでもしていれば、俺は君の悲しみに気付けただろうか。何を考えたところで、誰からも答えが返ってこないことは俺が一番わかっている。
通りの脇に神社の鳥居を見つけ、気づけば吸い込まれるように短い階段を上がっていた。幹線道路の喧騒から幾分か離れた境内は、すっと風がやんだように落ち着いて、それが尚更に俺自身も見つめられなかった心の奥の闇を浮き彫りにした。
あの夜、俺が君の隣できちんと寄り添ってやれていれば、君は車の波に身を投げることもなかったのだろうか。今となっては、神に何を問うたところで、彼女が返ってこないことは痛いほどわかっている。
明かりからも離れ、しんと音の止んだ境内でふと夜空を見上げる。気を抜けば漆黒に変わってしまうほどの、仄かな青みを帯びた空に、先ほどは見えなかった小さな星々が、点々と浮かび上がる。
ああ、そうか。あの夜を境に暗闇へと転じた俺の心が、いつも仄かに青いのは、君が遥か遠くでぼんやりと光っているからなのか。もう会うことの叶わない君に手を伸ばす。指の間をすり抜ける風が、わずかに湿っていて、わずかに温かかった。
#midnight blue