もしもあの日、恵美子が無理やりにでも旅行に駆り出してくれなければ、私は今でも『海は青く、風は無色透明だ』と思っていたかもしれない。
恵美子が商店街の福引で沖縄旅行を当ててきた。
彼女は「人生の運をすべて使い果たしたみたい」と驚きながらも、どこかばつが悪そうにしていた。もともと出不精な私が、数年前に腰を悪くしたことで、二人の間に旅行の話題が上がることはなかったからだろう。
「私のことは気にせず、友達でも誘って行ってきなさい」
「誘うようなお友達もいないもの。行くならあなたと行きたいわ」
「君に迷惑をかけるだろ」
「何言ってるんです。私が支えますよ」
いつもよりも押しが強い恵美子に根負けする。結婚して二十余年、ともに五十を過ぎていたが、二人とも飛行機での旅行はそれが初めてだった。
飛行機を降りた瞬間、湿度の高い熱気にやられた。慣れない飛行機での疲れもあり、早々にホテルのチェックインを済ませ、少し休憩を取ることにした。
部屋に入った途端、恵美子は楽しそうに声を上げる。
「ねぇ、あなた。海の向こうの方をフェリーが横切っていくわ」
その後も彼女は、海の向こうに小さく見える尖った島、白い砂浜、背の高い入道雲――と、興奮気味に窓の外の風景を言葉にしていく。ふと、声色が変わる。
「もう、あなたったら。せっかくの沖縄なのに、海を近くで感じなくてどうするの?」
私がベッドの端に腰掛けて、クーラーの下で項垂れているのを見かねたのか、恵美子は私をベッドから引き剥がすように手を引いた。
もはや私の杖は、地面を打つ隙さえ許されず、気がつけば、潮の香りは濃くなり、波の音も近くなっていた。恵美子があの木陰を見つけてくれなければ、私は浜辺で茹でダコになっていたに違いない。彼女と二人、木陰に腰を下ろすと、優しい風が顔の横を吹き抜け、それまでの暑さが嘘のように涼しくなった。
「海の青って一色だけじゃないのね。不思議だわ。深いところはとても暗い色をしていて、浅いところは緑色に見える。海面がキラキラ光って、まるでエメラルドの宝石がたくさん浮かんでいるみたいだわ」
私はサングラスの向こうに広がる景色に思いを馳せた。私が見ている光景が、恵美子が見ているのと同じ風景だったらどんなにいいだろう。
若くして光を失ったこの目の奥に映るのは、彼女が事細かに語ってくれる言葉のみ。潮の香りや波の音と重なりながら、頭の中で映像が出来上がっていく。
白い砂浜の向こうに広がるエメラルドグリーンの海、その向こうで濃い青色をした辺りにはフェリーが行き交い、天を貫くような入道雲が盛り上がる。そのすべてを照らす太陽はきっと眩しくて、すべての色をより鮮やかにしているに違いない。
「あなたと来られてよかったわ」
耳元で囁く恵美子の声に乗って、私の心の中の風景に淡い桃色をした風がふわりと吹き抜けていった。
#心の中の風景は
8/29/2025, 12:37:18 PM