もし、時を止められる能力があったとしたら、どうするだろう。使うだろうか。
時を止めることで、何かを変えることができたり、その瞬間が少し長くなったとして、本当に良かったと思うのだろうか。そんな大それたことをしたことに、喜びなんかを超えて、むしろ自責の念が湧き上がってくるのではないか。
時間は流れている。その時はすぐ過去になる。その流れにゆだねていくしかない。本当は、今の一瞬一瞬が大切なのだ。
でも、普段はそんなことを考えもしない。うまくいかないことにとらわれ、後ろを向いてまた他のうまくいかなかったことに時を使ってしまう。そんな自分の心こそ止めてしまいたい。
「時を止めて」
この頃、街中を歩いていると、ふっといい香りが漂ってくる。あっと思って辺りを見渡すと、キンモクセイの木が近くにある。ちょうど満開の時期らしく、オレンジの小さな花がこぼれんばかりに咲いている。
小学生の時、近所に大きなキンモクセイの木があった。まるでクリスマスツリーのような形で、花が満開になると、木の周りをぐるりと取り囲むようにオレンジ色の輪っかができた。土の焦げ茶に映えるオレンジが美しく、まるで美しいカーペットのようだった。
その大きさだから、香りも他のより何倍も強く感じられた。甘く温かみがある芳醇な香り。すっかり魅了されて、この香りをいつも嗅いでいたいと思った。いくつか花を拾って持ち帰った。水を少し入れた小さなガラスの瓶に入れてみる。コルクの蓋を開けると、かすかに香った。あの量じゃないとあの芳醇さは出ないのかなと思った。
キンモクセイの香りがすると、どこかノスタルジックな気分になる。夏の暑さも、色々な想い出もすべて放出していくかのように漂っている。
「キンモクセイ」
同期との飲み会では、つい気を許してしまう。一緒に働いている先輩の、仕事はよくできるのだけど、自分にも他人にも厳しい人だという話しをしていた。私はいつも迷惑をかけてしまうとも。
それを少し遠いところから聞いていた君が、「なになに? その人」と言いながら、いつもの人懐っこい笑顔で近づいてきた。話してみると、近々会社の行事で先輩と一緒になることがわかった。「その人と会ってみたいなあ」。いつになく真剣な少し厳しい顔をして言う。時々、妙な正義感を発揮することがあるのだ。「まさか、先輩のところに行ったりしないでよ」。「大丈夫」。
行事の後、先輩が話しかけてきた。「そういえば、君の同期という人に会ったよ。面白いね、あの人」とイタズラっぽい顔をして言う。こんな顔もするんだと思いながら、少しくだけた感じで色々な話ができた。
次の集まりの時、君に聞いてみた。「何話したの?」。「別に。どんな人か見たかっただけだから。とても優秀な人と聞いてます、って言ったかなあ」。「あれから、少し話しやすくなった気がする」。「そう? じゃあ、ビールおごってもらおうかな」。「何それ?」。呆れながらも、少し感心してその人懐っこい笑顔をながめた。
「行かないでと、願ったのに」
ちょっとした小悩みがある。
小さい頃、虫や蝶をとるのが楽しみだった。捕まえると、その美しい羽や形をじっくりと観察する。そのうち標本というものがあるのを知った。美しい姿をそのまま残せるなんてと標本を作り始めた。上手に作るのは、なかなか大変だけれど夢中になった。
大人になって、自分で作らなくなっても標本を見るのは好きだった。博物館などで機会があれば、時を忘れて見入った。
でも、仲の良いあの人は虫が苦手だ。秋の枯葉が舞う公園を一緒に散歩している時、トンボが横切っただけでもビクビクしている。
ああ、もっと親しくなって家に来ることがあったら。あの引き出しに、大切な標本がひとつ入っている。あれを見たらなんて言うだろうか。自分のことを嫌いになってしまうのではないか。
そのことがずっと気がかりなのだ。
「秘密の標本」
手袋を片方よく落とす。凍えるような寒い朝なのにまた落としてしまった。手袋の手に荷物を持ち、片方の手はポケットに入れて歩く。
冴えた空気の中、日差しは強い。長いコートに大きめの紐履、まるでペンギンのような影ができている。ペンギンがペタペタ歩いている。今日は、会うかな?と思っていると、「おはよう」と声がして、もうひとつ影が並んだ。
「そんな格好していると、転ぶよ」。「手袋落としたから」。「また? よく落とすよねえ」。何だか自分でも腹ただしくなってきて、思わず足を早めた。すると、隣に伸びる影からすっと手が伸びてきて肘を掴まれた。ポケットから出た手を手袋の手が包む。「特別に今日は手を掴んでいいよ」と言う。
「貸してくれるんじゃないの?」。「こっちが寒いでしょ」。手袋の手は大きくて、とてもあたたかかった。この人は、時々こんなずるいことをするんだと思いながらも、つい笑ってしまった。
「凍える朝」