そういえば、時計の針が重なる時に、偶然時計を見ることは少ない。
街で、からくり時計が動くところに遭遇することがある。そんな時は、つい足を止めてしまう。今まで静かに時を刻んでいたものが、時が来て、急に動き出す。小さな扉から人形たちが躍り出てきたり、灯りがついたり、色々な演出がある。
一通り終わると、人形たちは、はい、終わりといった感じで、つーっと戻っていき、パタンと扉がしまる。時計はまた静かにひっそりと時を刻む。その何事もなかったような静寂も面白い。
見終わると、ちょっと得したようなうれしい気分になる。ましてや、針がピッタリと重なる12時に遭遇した時は、何かいいことがありそうな、そんな気がする。
「時計の針が重なって」
今まで、心の中では何度もその言葉を言ってみていた。帰り道に二人で少しでも話をしてみたかったのだ。普段話す機会があまりなかったから。
ある日は、帰る支度をしているのを見て、一緒に立ち上がってみた。思いがけず、ガタガタと大きな音がしてタイミングを逃した。またほかの日には、さりげなく退室して、エレベーターホールのところで待ってみた。今日こそと思っていたら、一向に会わない。どうやら、違うルートで出て行ったらしい。そんな感じでそのタイミングはなかなか訪れなかった。
遅くなったある日、エレベーターを待っていると、扉が開いて君が出てきた。「忘れ物をしたから。あれ、遅いね」。「うん、一緒に駅まで帰らない?」。「いいよ」。忘れ物を取りに行く後ろ姿を見送る。ずっと待ち望んでいた機会なのに、逃げ出したいほどドキドキしていた。
「僕と一緒に」
くもりの日は、あんまり光を意識しなくても写真がうまく撮れる気がする。光の強さがいい感じなのだ。晴れの日の強すぎる光は、陰影がつき過ぎてコントロールが難しい。
人との関わりも、強すぎる光には薄いヴェールがほしくなる。ちょうどすりガラスくらいの。時にはそれを何枚も重ねて、その中に身を沈めてしまいたいと思うこともある。モヤモヤ曇って訳がわからなくなるのだけれど。
すりガラスの中にいると、たまにはクリアなガラスも恋しくなる。ぱっと明るい光を浴びたら、また頃合いをみて、すりガラスをかぶせる。一枚だけ、そのくらいがちょうどいいのだろう。
「cloudy」
虹がかかったのを見る時の、あのときめきは何だろう。何色かの色が重なって、薄く透ける感じが美しいからだろうか。すぐ消えてしまう、はかなさにも惹かれるのだろうか。
子どものころは、誰かが「虹だ」と言うと窓際に行って大騒ぎした。大抵は、空の下のほうに消えかけの色が、うっすら見えているだけだったりする。それでも、青い空に浮かぶその色合いは、特別だった。
たまに、半円ではっきり見えた時は、しばらく見とれてしまう。滅多に出合えないその架け橋が、何だかとてつもなくいいことを連れてきてくれそうな気がする。
「虹の架け橋🌈」
すぐに返信を送るのが苦手だ。言葉にするのは、カタチに残るから、すごく気をつかう。書き言葉には、時々、誤解が生まれる。思いが間違って伝わらないかなんて、慎重になってしまう。だから、ポンポンと会話の応酬にならず、遅くなることもある。
もらったメッセージを、しばらく保留にすることがある。落ち着ける環境になった時に、ゆっくりと見て、またゆっくりと考えて返信する。
親しい人は、なんとなくその間合いを合わせてくれているようだ。でも心配に思う人もいるかもしれない。だから、返信が遅くなるけれどなんて、時々言い訳をしたりする。
「既読がつかないメッセージ」