夏の香りがする。テーブルの上で、茹でたての枝豆ととうもろこしが湯気を上げる。
「まだ熱いからね」
そう言って笑う顔は、随分と皺が増えた気がする。
「すごい量」
居間の大きなテーブルを埋め尽くす食べ物。明らかに息子一人を出迎えるには多すぎる。
「大丈夫、食べれる分だけ食べたらいい」
取皿と、いつまでも実家にある俺の箸。捨てていい、割り箸でも使うと言ってもそうはいかんと突っぱねられる。両親の箸を買い替える時に、一緒に新しくなっていたりもする。
「ほれ、飲むぞ」
瓶ビールと冷えたグラスを抱えた父が戻ってくる。足が随分細くなったように見えた。
「コロナが、落ち着いたら――」
注いでもらったビールに口をつける。言おうか、言うまいか。どう思われるだろうか。
「落ち着くかねぇ」と母。
「いつまでもこのままってこともないだろ」と父。
グラスを傾けると、ずらりとかけてある写真と目が合う。何枚も並ぶ中で、唯一知ってるじーちゃんの写真。小さい頃はよく遊んでもらった。
「コロナが落ち着いたら、温泉にでも連れてくから」
「どしたの突然」
「明日は槍でも降るか?」
「まぁ、たまにはね」
〉今一番欲しいもの
名前は、親から子への最初のギフトなのだと言う。であれば僕は、生まれながら呪われたようだと、自分の名前を見る度に思う。
不実と不安の代名詞。それがいつまでもついて回る。大嫌いだ。
「ねぇ、そっち晴れてる?」
「うん」
電話越しに、君の声。こもった音で嫌いだという君の声が、僕は何よりも優しく聞こえて好きだ。口下手で相変わらず相槌ばかりの僕に、君はいつも優しく語り掛ける。
「月見える?」
「え。あぁ、あった」
促されるように仰いだ空から、ひとつの光を探し出す。それはいつもと変わらず、ただ静かに、不安定な姿を晒していた。
「もう少しで満月かな」
「欠け始めたとこかも」
「月が見えると、君を思い出す」
「そう」
「空にいつもあるから、離れててもいつも一緒みたい」
「そうかな」
「でもやっぱり会いたいね」
「うん」
誰かと時間を共有することも、大切に思うことも、全部君が教えてくれた。君を見ていると、どんどん僕の世界は新しくなる。
大嫌いな名前も、ほんの少し好きになれそうで、どこか少し落ち着かない気持ちになった。
〉空を見上げて心に浮かんだこと
鍵盤に指を添えると、少しの冷たさが指先に伝った。ひと呼吸置いてから、ゆっくりと沈める。音の鳴らないくらいゆっくりと。親指から人差し指、中指、薬指と続いて、小指まで辿り着く。一音も響きはしなかった。ただ鍵盤が沈んだだけ。
音の無いメロディ。何たる矛盾か。鳴らない音。声にならない言葉のように、誰にも知られず気付かれず。たしかにそこにあるのに、まるでどこにもないような、寂しさ、虚しさ。
見つめる鍵盤に、ため息が落ちる。
見つめるほどに、よく分かる。ずっと見ているのだから、それこそ嫌というほどに。あなたが誰を見つめているのか。その思いがどれほど一途で真剣なものか。
分かるからこそ、何を言葉にするつもりにもなれない。これは弱さだろうか。逃げだろうか。
募るほど苦しく、重く。もう耐えられそうもない。
ピアノの蓋を閉じて、傍らにあるキャリーケースを引き寄せる。パスポートに挟んだチケットを確認して、大切にしまい込んだ。
最後まで何も言えなかった恋に、ピリオドを打とう。
〉終わりにしよう
新進気鋭の作家が手掛けた、前衛的アートのような光景。言葉の中には決して収まりそうもない。
「ねぇ……」
これでよかったんだよね?と小さく呟いた声は彼女の耳には届かない。男の頬にはとめどなく涙が伝う。
つややかな赤が、小さな水溜りを作る。そのまわりには無惨に切り取られた紫陽花が並べられていく。
初めて贈ったネックレス、誕生日にもらった万年筆、旅行の記念にお揃いで買った切子のグラス。大切な思い出も一緒に飾り付けられた。
男はかばんから、彼女の大切にしていたカメラを取り出すと、自らが作り出した景色に向けてそのレンズを構えた。
異様な光景、としか言いようのないそれ。ただ静かに、シャッターを切る音だけが響いた。
〉目にしているのは
「お題:あじさい」の続き。
愛故に未遂か、気が触れて実行か。
あれを書いてた頃は自分でも分からなかったけど
このお題ならこの結末かな、と。
ぼくはお父様と同じ、プラチナブロンドの美しい髪だ。この色はぼくの自慢。お父様もいつも嬉しそうにぼくの髪を撫でてくださるんだ。
お兄様はお父様と瞳の色がお揃い。空のように美しいロイヤルブルーだ。お父様はいつもお兄様に「その瞳は知識の色。国を統べる者に相応しい」と仰っている。
だけどお兄様は、本当はお勉強が苦手らしい。
お父様は、お兄様とぼくに家庭教師を呼んでくださったけど、いつも先生はお兄様の態度や成績に頭を悩ませている。
「私の可愛い王子。きっと兄君のお役に立ってね。陛下のためにも」
お母様はぼくがお勉強で褒められるととても嬉しそう。ぼくのこともたくさん褒めてくれる。
数年経ったある日、ぼくとお母様は、お父様のお住まいから離れた塔に移された。お兄様のお母様――王妃殿下がお決めになったことだった。
王宮内に出入りする一部の人達から、次期国王にぼくを推す声が上がったらしい。
お兄様は相変わらずお勉強の時間に城下へ遊びに出たり、先生相手に傲慢な態度を取ったりと、好き放題やっている。最近はお父様も頭を抱えていたっけ。
お母様もぼくも、一度だって王位を欲したことはない。あの椅子はお兄様のものだと分かっている。
けれど臣民からの支持を得られないのも事実。
智の蒼眼は今頃、何を見つめているのだろうか。
〉優越感、劣等感