窓の向こう。沈む景色を点々と彩るあかり。どれもあたたかそうに見えるのは、色のせいだろうか。落ち着かなくて取り出した裁縫箱。暗がりにあかりを灯して、窓辺で針を滑らせる。
向こうから見たら、ここも一つの光の点。
何を思うのか、何をしているのか。そんなことは何もわからないけど、何となくひとりじゃないと思わせてくれる。その光に励まされながら、眠れない夜を明かす。
〉街の明かり
彼女はとてもミーハーだ。
世間の風潮にことごとく流される人で、割りと気分でものを言う。先月は、七夕のイベント告知を見て突然「七夕婚もいいよねー」なんて言っていた。何と言うか、基本言葉が軽い。吹けば飛ぶと思う。
まだうす暗い部屋の中、スマホで時間を確認する。眩しいバックライトに顔をしかめながら視線を滑らせた。いつもならまだまどろみの中にいる頃だが、薄手の肌掛けの下にはすっかり覚めた意識がいた。
沈黙の中、すましていた耳に彼女が部屋から出る音が聞こえる。
彼女のマイブームはころころ変わる。形から入るタイプなこともあって、共有スペースには様々なものが溢れている。ミニマリスト、というわけではないと思うが一人で暮らしていた時代は必要最低限のもの以外はあまり置いていなかった。欲しいとも思わなかった。ただ、必要性を感じなかった。
とうに動き出す準備の出来ていた体はすんなり布団を抜け出す。昨日の疲れも残っている風ではないことを確認して、スリッパに足を引っかけて扉に向く。今日はこの先がある意味、決戦の場なのだ。意を決してまず一歩を踏み出した。スリッパの底が床を滑る音が、いやに大きく聞こえた。緊張が体の至る神経を過敏にしているのだろうか。どうも落ち着かない。
レースカーテンを通り抜けた朝日に照らされて、統一感の欠片もない部屋の有り様が鮮明に映った。手芸用の布が入った蓋の浮いているボックスに、本棚にサイズごとに並ぶ漫画本、本の手前には個性豊かな形をしたカラフルなネイルの小瓶たちがグラデーションになるように飾られている。本人曰く「見せる収納」らしい。
テーブルの上には、今日の日付に丸が付けられた小さな卓上カレンダーと開きっぱなしの雑誌。見出しを見ると、今のブームは美容や健康の類らしかった。以前もスーパーフードにハマって、色々なものが食卓に紛れ込んだことがあった。アサイー、チアシード、キヌア、亜麻仁油、ココナッツオイル。どれも口に馴染みがなく、違和感だらけの食卓だったが、いつも通り長続きはしなかった。今は肉じゃがやハンバーグの並ぶごく普通の食卓だ。
付箋をつけている特集は、体を労るスローライフ。プランターで作った自家栽培の生野菜でも出てくるのかも知れない。
「あ、おはよー」
そんなことを考えていると、洗面所に続く扉の向こうから、まだ部屋着姿の彼女が現れた。髪をヘアバンドで上げて、肩にはタオルが掛けられていた。おはようと返すと、満足そうに笑ってさっさと自分の部屋に消えた。
小さな背中を見送ってキッチンへ向かう。休みの日の朝は、コーヒーを淹れるところから始めるのが、唯一のこだわりだ。これさえ飲めればその他の大抵のことは許容できる。それは、自分の意志や考えがあまりないということにも近いが、時間を重ねるうちに存外この自分の性分を気に入っているのは彼女に出会えたからだろう。
「うわっ」
ダイニングテーブルの脇をすり抜けて食器棚へ向かう途中、テーブルの脚に寄り添うように置かれていた何かに足を引っかけた。改めて床を確認すると、そこに転がっていたのは水の入った大きなペットボトルだった。ざっと目視で変形の有無を確認すると、一か所大きくへこんでいた。そのへこみを手で少し整えようと試みたが改善はされても元の形には戻りきらなかった。諦めてそっと元あったであろう場所に戻してやる。何のつもりか知らないが、彼女が置いたものなのは明白。そうなるとまずはそっとしておくに限る。良かれと思ってテーブルの上に置きなおしたのに怒られた、なんてパターンは遠慮したい。
気を取り直して、食器棚へと向き直る。コーヒー豆と手動のミルを棚から出して、プロテインについてきたプラスチックのスプーンを用意する。これで豆をすくうと擦り切りより少し多めの一杯が、だいたいコーヒー一杯分に丁度良いのだ。二杯分の豆をミルに入れる。小さな豆からこぼれた香りが辺りに散らばる。それらを閉じ込めるようにミルの蓋をして、レバーを回す。すると閉じ込めたはずの香りが今度はミルを起点にまたじわじわと溢れ出す。キッチン全体がコーヒー特有の香りで染められていくのが分かった。
レバーがすっかり軽くなったところで、紙のフィルターと水、それから挽いた豆をコーヒーメーカーにセットする。スイッチを入れて、両手にカップを持ちリビングへと戻りソファに腰掛けた。テーブルにカップを置いて、今度はリモコンに手を伸ばす。光の点った画面に映ったのは、ニュースの合間の天気予報だった。
天気マークの背景は、ブライダルリング専門店の映像だ。ショーケースを挟んで、店員と一対一で向き合う男。ショーケースに向けられた視線はゆるく左右に揺れていた。恋人に贈る婚約指輪を選んでいるのだろう。
ちらりと、ソファの隣りにあるサイドボードに視線を向ける。キャスターと引き出しの付いた、あまり大きくないサイズのものだ。その天板には、水が張られた透明なうつわが置かれ、そこにいくつかの花が浮かんでいる。一輪、花占いに使いそうなオレンジ色の花が見えて何となく身を寄せる。放射状に伸びた花びらが、天気マークの太陽のようだった。そっと花びらに触れてみると、ゆるやかな速度で、遊園地のコーヒーカップみたいにくるくると回った。
「ガーベラ好きなの?」
ふいに背後から声がして、思わず肩が大きく揺れる。
「え、驚きすぎじゃない?」
「いや、部屋から出てきた音、全然しなかったから」
振り返ると、着替えと化粧を済ませて、すっかり出掛ける支度の整った彼女がいた。
「さては私に何か隠し事でもしてるな?」
口の端をきゅっと上げて、悪戯を思い付いた子供のような笑顔を見せる。可愛いと形容するには少し意地が悪そうだが、見慣れた笑顔に心が少しゆるむ。
「あ、そうそう」
何かを思い出したように、こちらに背を向けてぱたぱたと小走りでキッチンに急ぐ。何事かと思って行方を見守っていると、透明なグラスを出して、テーブルの下に置かれていたペットボトルから水を注いだ。今は七月初旬。室温の水はさぞぬるいだろう。しかし彼女はこともあろうに、そのもう十分ぬるいはずの水に、電気ケトルから少しのお湯を注ぎ入れた。それをどうするのかと思って眺めていると、手に持ってこちらに戻って来た。
「はい、これ飲んで」
そう言って差し出されたのは紛れも無く先程のそれ。透けて見える向こう側に、淡いイエローの袖が揺れる。水を通したことで一層柔らかそうに見えるその布は、どこか熱帯魚のヒレを思わせた。けれどそのことを口には出さない。前に彼女が袖のあるトップスにキャミソールを重ねた着こなしをしていた時、視覚的な違和感から来る居心地の悪さに、思わず「普通逆じゃないの?」と聞いてしまったことがある。すると少しの間も置かずに「古い、分かってない」と怒られた。その後しばらく不機嫌だったことがあって、それからはファッションについての感想は「可愛い」と「似合ってる」以外は口に出さないことにしている。
「ほら、早く」
促されて半ば押し付けられるようにグラスを受け取る。指先に伝わる温度はやはり全く冷たさを有してはいなかった。
「なんかね、朝起きて一番にお水を飲むと健康に良いんだって!出来れば体温に近い方が体に負担が少なくて」
あれか、体に優しいスローライフ。あれこれと説明を始めた彼女の言葉を程々に聞き流しながら、なるほどこう来たかと考える。自家栽培野菜の予測が外れたことが少しだけ悔しかった。しかしこうなれば付き合うしかない。それは長年の経験で分かりきっていることだった。中途半端な温度のものを口にするのはあまり好きではないので、少し覚悟が必要だった。ぬるいというか若干ぬくい水を、グラスを傾け一気に流し込む。何とも言われぬ違和感とも気持ち悪さともつかないものが襲い来る。それでも空のグラスを見て満足そうに微笑む彼女の顔を見ると、仕方ないと思えてしまうから困りものだ。
回収したグラスをシンクに下げながら、今度は淹れたてのコーヒーを携え彼女がこちらに戻って来る。二つのカップに程よくコーヒーを注ぐと、隣りに座って自らのカップに口を付けた。その仕草に釣られて、同じようにコーヒーで満たされたカップを口元に寄せる。深い色の水面から立ち上る何とも言えない香りが好きだ。そっと口に含むと、苦味や少しの酸味がいっぱいに広がる。休日の朝、まったりとコーヒーを飲むこの時間は、一人暮らしの頃と変わらない。違いがあるとすれば、隣りに彼女がいることくらいだ。
「これからも、休みの日の朝はこうして一緒にコーヒーを飲みたいな」
「何、プロポーズ?」
茶化したように彼女が笑う。彼女はいつもよく笑う。些細なことでも全身で、全力で楽しむ。そこが好きなんだ。
サイドボードの引き出しを開けて、小箱を取り出す。それを開くと中には一粒のダイヤモンドが澄ましているプラチナのリング。
「そう、プロポーズ。俺と結婚してください」
この時ばかりは彼女もとても驚いた顔をしていた。それもそうだろう。なんてことない休日の始まりに、何の前触れもなく婚約指輪とプロポーズが飛び出してきたんだ。むしろ割りと正常なというか、普通のリアクションで安心した。彼女のことだからネタか何かと思って笑い飛ばしてうやむや、なんてパターンも想定していたから。
そうこう考えているうちに、スッとリングの方に手が伸びてきた。
「つけて」
差し出された左手。店員さんと一対一で悩み倒してようやく決めた婚約指輪。彼女の手を取って、リングを薬指に滑らせる。
「今日、七夕デートって言ってた」
「うん、行こう」
「買い物して、ランチするって」
「言ったね」
「ランチの後、行きたいところがあるって」
「そう、だから悪いんだけど、」
サイドボードから、今度は二枚の紙を取り出す。茶色い縁取りの一枚は記入用で、同じ型の紙にびっしり文字が入っているもう一枚は記入見本だ。
「出かける前に、君のとこ埋めてくれる?」
「……ほんとに七夕婚じゃん」
「まるで織姫と彦星だね」
「ないわ」
それだと会うの年に一回じゃん、と不満そうに続けながら、彼女は手の中の紙を奪い去っていく。ひつじのぬいぐるみが飾られた本棚。その上段の片隅に、埋め込まれるように収納されていたペン立てからボールペンを取り出す。まじまじと紙を見つめ、時折紙の首を傾げたり記入見本と見比べたりしながら少しずつ空欄を埋めていく姿を見つめながらぼんやりこれからのことを考える。
たぶんきっと、これから何度も記念日を迎える。その度に最初に思い出すのは、もしかしたらあのぬるい水かもしれないと思った。
〉七夕
何年か前に文学フリマでもらったお題
“ぬるい水”
自分で付け足した要素が七夕だったから。
使い回し。
前のものだから、読みにくかったりネタが古かったりしてるけど、まぁそれはそれ。
これを書いていた頃は人に見せるなんて怖くてできなかったんだ。
手のひらから砂がこぼれ落ちるように。そんなありふれた例えが何よりしっくりくる。君との思い出を語るなら、きっと砂時計が必要だ。思い出が多すぎて、どこまでも話し続けてしまうから。
「痛みに慣れてしまわないで」
君がどんなつもりで言ったのかは知らない。でもぼくの忘れられない言葉。メールの片隅のほんの一言が、ずっと胸に残ってる。
君もぼくも、たぶん人より少し変わっていて。ぼくはあの頃全部が欲しくて、でも全部が嫌いだった。心なんて痛いのが当たり前で、悲しくても泣けなくて、助けてなんて言えなかった。それでも虚勢を張って笑ってみせた。とてもか弱い子供だった。
そんなぼくに、君は優しかったし、明るくいつもいろんなことを話して聞かせた。
それらしい言葉を並べるのは得意でも、本当の意味で人と関わることが苦手なぼくは、君のそのおしゃべりを聞くのが好きだった。
君はいつも僕を肯定して、時々蜂蜜みたいな言葉をかけた。拭いきれずに残るようで、でも嫌いになれなかった。
だけど時間はいろんなものを変えていった。君とぼくの間にあったか細い糸はとても頼りなかった。
少しずつ行き交う言葉は減って、ついには絶えた。
もう過去は過去で。君も過去で。別に戻りたいわけでもなくて、でも時々思い出す。それだけのこと。
だけどそれなりに、大切な思い出。
〉友だちの思い出
神様だけが知っている、世界の秘密があるらしい。
木々に青葉、晴れた空には白い雲。風はそよぎ、花は揺れる。うららかな日差しで満ちる、絵に描いたような美しさのこの世界には、決して暴いてはいけない秘密がある。まことしやかに囁かれる噂話。ここのところみんなずっと、出どころの分からないそれを気にしている。
地域住民の戸籍や経歴を管理する、いわゆる住民課。ここが私の仕事場。今日も渡された書類にそって、登録情報の書き換えや抹消、新たな登録などを行う。
個人情報の管理はとても厳重で、住民課はみなワークスペースが個別に区切られ、遮音も万全だ。だから同じ部署にいても他の人が何をしているのか、さっぱり分からない。
ある日不思議なことを言う住民が来たと、受付を担当している同期から聞いた。なんでも、昨日までいた恋人の存在が忽然と消えたのだと。
失踪なら別にそこまで珍しいか?と思ったが、この話には続きがあった。
恋人がいないのはもちろんのこと、借りられていた部屋の中のもの、職場や友人、どこを探しても、誰に聞いても、その人がいた形跡や思い出ごと消えてしまった、と。
「それって、最初からいなかったのでは」
「こっちもみんなそんな反応」
「だよね」
人が消えるなんて普通に考えたらあり得ない。存在や、痕跡や記憶。まるごと消えてしまうなんて。まるで作り話だ。
「結局その人、家族が迎えに来て、病院に連れて行ってみますって」
そんな話をして、同期とはいつもの駅で別れた。
広々とした部屋に、ふたつの人影。
「騒ぎがあったって?」
椅子に腰掛けゆったりとした口調で、けれど確かに咎めるように放たれる言葉。
「申し訳ありません」
そばに控える黒服の男は静かに頭を垂れる。
「ダメだよ、関わりのある個体はきちんと洗い出さないと。で、その子は?」
くるりと椅子を回転させて黒服を振り返る、中性的な顔立ちは優しげで、けれどその笑みにはどことなく圧がある。
「家族が精神科を受診させたので、そのまま一時入院とし、その間に他の者と同じように記憶の処理を致します」
黒服は先程から下げたままの頭を、より深く沈める。
「大切に扱ってよ。その子も大事な代替品(レプリカ)なんだから」
「仰せのままに」
この世界には決して暴いてはいけない秘密がある。
「ねぇ、知ってる?」
「この世界は全部ニセモノで出来てるんだって」
真偽の定かでない噂だけは、水のようにどこまでも流れていく。
〉神様だけが知っている 22.7.4
目の前の窓をすり抜けて、あたたかさを携えたきらめきが注ぐ。それは、ガラスも空気もプラスチックのコップも一瞬で通り越して、テーブルの上に散らばる。
光の粒が書きかけのノートをたどって私の手に触れる。
朝の決まったルーティンをこなす私に、気紛れなおひさまからのギフト。
〉日差し 22.7.2