私の好きな人は、夏を意味する名の人だった。ある年この町に、悲しみが立て続けにそそいで、痛々しいほどの静けさが満ちたある夏の日に、彼女は忽然と姿を消した。
どうしてとか、どこにとか、考えたところで分かるわけもなくて、ただ君がいないという事実だけが私に残った。
ぐるぐると渦巻く無意味な問答は、日毎のどの奥に詰まるようだった。首にも指先にも至る関節にも、やわらかな真綿が絡み付くかの如く、日々様々が鈍っていくのを感じた。
春の終わりに、町に色彩屋が訪れた。彼女はぐらりと眩むような、何かを思わせる印象的な瞳の女性だった、ような気がする。今となってはいたということ以外、何も思い出せない。色彩屋は、その存在自体があってないようなものだから。
出会った人も、繰り返し言葉を交わした人も、色彩屋が残した色も、確かにある。けれど誰一人として、彼女の顔も声も思い出せない。そういうものらしい。
理屈はわからないが、色彩屋は古くからいて、噂のような話はたくさん残っている。
人ならざるものだとか、白昼夢の一種だとか。色彩屋という肩書きが簡略化されて、シキという呼び名が付いたという説だけは、信憑性が高いんじゃないかと個人的には思っている。
色彩屋が町を去り、次の夏が来る頃には、私もようやっと人らしい日々を取り戻していた。何が解決したわけでもないけれど、色彩屋が灯していった鮮やかな色が、今日も私に前を向かせてくれる。
〉君と最後に会った日 22.6.26
色彩屋の、断片。
手折ることはたやすい。
けれどそんなことはしない。
大切に、愛情を込めて育てれば
花はなお美しく咲き誇るだろう。
先日贈ったタンザナイトのネックレスは
彼女の白く透き通る肌によく似合うはずだ。
あれに合わせたドレスを次は贈ろうか。
プライドが高くて、その癖打たれ弱いところがある。
けれどそんなところも許してしまえるのは
花が綻ぶようなあの笑顔のせいかな。
〉繊細な花
「立志の年を前に、自らを振り返り目標を立てよう」
上手いのか下手なのか分からない担任の文字が黒板に並んでいる。配られたプリントには時期ごとに自らの特徴やがんばったことを書き込むための枠がいくつもある。
――正直、立志式とかどーでもいい。
思わずため息をつきそうになる。
幼稚園ではいつも、先生がみんなにひとつの本を読んでくれて、おともだちと同じ園服を来て、全員で同じ歌をうたう。教えられた同じ言葉で挨拶をして、みんなと楽しく過ごした。
小学校では授業の中で人の気持ちを考え、共感し、同じ数字と向き合い、同じ答えを導き出す。ひとつの文章から何を感じたかを書けという問では、先生に気に入られないとバツがついた。
振り返るほどおぞましい。
いつからだろう。
同じでいることが当たり前になったのは。
どうしてだろう。
違うということに不安を覚えるのは。
どこかで誰かが「当たり前のことなんて一つもない」と強く叫んでも、その言葉にネットでどれほどの人が同調しても、何年も何年も掛けて出来上がってしまったこの国の当たり前は消えてくれない。
同一化を強いる社会の恐ろしさ、滑稽さ。そこから逃れるために、今出来ることはなんだろう。
子供の頃は疑いもしなかった、たくさんのこと。
大人とも子供ともつかない宙ぶらりんな僕たちは、どうやって立ち向かえるんだろう。
――どうせなら、
ただ目標を立てるよりも、河野太郎あたりとこの国の未来の話をしてみたい。リモートでいいから。15分でいいから。
なんて、プリントに書き込んだら絶対怒られるんだろう。
〉子供の頃は 22.6.23
河野氏と若い世代のディベート、面白そうな気がするのは私だけでしょうか。
日々の常ごと。当たり前のようにそこにあって、まるでそれらには特別な価値がさほど無いかのように錯覚させる。
慣れというものに潜む恐ろしさを思った。
ため息に似た息を吐き、シキは空を見る。どの世代を歩いても、空だけは地上ほど代わり映えない。
そこにあった景色。ここにいた人。時間の移ろいの中で、うたかたのようにかえっていく。どこかへ。
この古ぼけたあばら家にも、かつては人が住み、笑顔と笑い声に満ちる時間があったことを、彼女は知っている。
大切な時間が過去となり、決して帰らないことを知る。失われたものに、次などないのだ。
腰に下げた小瓶も満ちた。彼女はまた次の場所へ行かねばならない。それが彼女が色彩屋である所以だから。
花売りの娘にもらった花弁の色をつめた小瓶を、色彩屋はためらいなく傾ける。床は瞬く間に色とりどりの花で埋め尽くされた。
弔いにしては賑やかな色と空気が満ちて、シキはふっと目を伏せた。懐かしい面影を思って、過去の自分を思って。
〉日常
いつぞや書いていたオリジナル。の、断片。
その歩みは時を跨ぎ、世の中の色だけを頼りに人と繋がる無色彩の存在。誰もその顔は思い出せない。
色彩屋という色を扱う女性のお話。
好きな色、というのは憧れのあらわれなのだといつか聞いたことがある。その人がまわりからどんな風に見られたいのか、というのはその色が持たれがちなイメージととても近いのだと。
わかりやすいところで言えば、青が好きな人は冷静な人と思われたいとか、白が好きな人は無垢な印象を持たれたい、とか。
思い返せば私の好きな色は、歳を重ねるごと少しずつ変わっていった。青からオレンジ、そして灰、その次は黄緑。これは幼少期から成人するまでの変化。この変化はたしかに、なりたい自分像の変化に伴ってのことにも思える。
成人してから干支一周分の時間が過ぎた今、私に好きな色はない。考えてみても、これといってピンポイントでこの色!というものが見つけられなくなった。
きれいなものをみると良いなぁと思うし、淡い色も、深い色も、それぞれの魅力がある。だけど私にとっての特別にはなりえない。
誰からどう思われたいのでもなく、何かになりたいわけでもなく。今はただ、自分の思うままに自分らしく。そんな生き方がしたい。
〉好きな色 22.6.21
まぁでも、強いて言うなら推し色は白かな。むしろオーロラ?好きな色とは少し違うけど。