「さみしいですか」
息子が会いに来ない、一年以上顔を見てない。そんなことをぼやく背中にたずねた。
別に、と虚勢を張るのだろうと勝手に思っていた私の耳に届いたのは「そりゃ寂しいよ。さみしい」と、どこか力無い声だった。
そうか、さみしいのか。私達がいるじゃないですか、と冗談めかしても、きっとダメなやつだ。これはそんな空気じゃない。それに、どうやったって職員と家族は違うのだ。
「長生きはしたくねぇなぁ、こんな状態で」
と、自身につながる酸素のチューブを指で弄んでいたのは春先のことだったか。よく晴れたうららかな昼下がり。
私の親とちょうど一回り違う。とはいえ老人施設にいるには若い、よく口の回るにぎやかな人。
それから少し経って、何度か体調を崩した。呼吸器の難があることから、些細な異変でもよく入院になる。
「おかえりなさい!」
待ってた!となるべくにこやかに迎える。けれど返ってきたのは無理やり作った笑顔と、思いもよらない言葉だった。
「ガンかもしれないから、検査を受けろとさ」
「えぇ、受けたんですか?」
「嫌だよ。受けたくないね」
「どうして」
「だって怖いじゃないか。もしガンだったら」
そこまで言って、プツリと言葉を切った。
私は不思議だった。長生きしたくないと言っていた人が、ガンは恐ろしいのかと。
検査を受けなければガンかどうかわからない。けれど本人が知っていようがいまいが、ガンならば進行する。そして最悪の場合死ぬだろう。
検査を受ければ、ガンかどうかはっきりする。違うなら安心するし、そうなら治療ができるかもしれない。
私ならすぐ検査を受けたいけど。なんて、他人事だからか冷静に考えていた。
当事者はそうもいかないのかもしれない。
夏。とても暑い日が続く、見事な猛暑だった。毎日汗だくになって働いた。あの人は、度重なる説得の甲斐あってか、ついに検査を受けた。
ガンの余命宣告は、告げられる時間が、本当に残されている時間と合致する、という話をよく耳にしていた。
医者が五年と言えば五年。三年と言えば三年。大体の場合は、驚くほど正確らしい。
「ステージ4、余命一年だと」
口元だけ、ぎこちなく笑っていた。
「死にたくねぇなぁ」
それが、一年前の夏のこと。
私は新聞を滅多にみない。もちろん訃報欄も。あの人が今生きているのか、死んでしまったのか、施設を離れた今となっては、私に知る術はない。
だけど知る必要はない。
人が生きるということの、答え。その小さな欠片を、確かにみた気がしたあの日の記憶は、あのぎこちない笑顔と共に、私の心に刻まれている。
〉あなたがいたから 6.20
あなたがいたから、生きるということが少し分かった気がした。その心の移ろいこそが、人が人として生きるということなのかも知れない、と。
人混みは苦手。流れを見て歩かないと、上手く進めない。手を引いてくれる人がいるうちは、そんなこと全然考えなくてよかったのに。
友達に見られたら恥ずかしいからって、手をつなぐのをやめたのはいつだったっけ。
「うわ、ほんとに降ってる」
駅の外は雨だった。出掛けにママが今日は降りそうだからと言うので信じてみたけど、なかなか降らないから持って出たことを後悔し始めていたところだった。やっぱり信じて良かった。さすがママ。
傘を開こうと留め具を外すと、真横に人が並ぶ。何だか妙に距離感近いなぁ、と思ってちらりと視線をやると、ばっちり目が合った。
「パパ!」
「助かった〜、パパ傘持ってないんだよ」
なんて言いながら嬉しそうな顔。
「ママに言われなかった?」
「朝は晴れてたし、降らないと思って」
「あーあ。ママを信じればよかったのに」
「そうだな〜。でもほら、可愛い娘がちゃんとママを信じて傘持ってたから大丈夫!」
そう言って何故か誇らしそうに親指を立てる。
「あ、でも……学校のお友達に見られたら嫌?」
ほんの少ししゅんとして見えるその姿は、なんだか私より子供みたいに見えた。
「さすがにパパだけ濡れて帰れとは言わないよ。今日は父の日だし、特別ね」
「良かった〜!父の日最高!」
何年振りかに肩を並べて歩く帰り道。懐かしくてくすぐったい。たまにはこんな日も悪くないかな。
〉相合傘 22.6.19
試験の日に見た夢は、高い空から落ちる夢。真っ青な空と、あちこちに浮かぶ雲。その中をどこまでも落ちていく。不思議と恐怖は無かった。
受験戦争、なんて言葉がしっくり来てしまうくらい、ここ数年はピリピリしていた。母は生真面目で一生懸命な人だから、私のために痛々しいくらい必死になってくれた。
「お母さん、自分が行きたかったあの学校にあなたが受験を決めてくれたこと、本当に嬉しいの。あなたならきっと素敵な娘役になれるわ」
ことあるごとにそう言って、私を励ましてくれた。日々の振る舞いや言葉遣い、食事の管理も、常に母は気を配り、一切妥協がなかった。
「大丈夫、あなたならできる」
精一杯の笑顔を貼り付けた試験日を過ぎてからは、私よりも結果を気にして落ち着かなかった。気にしたところで結果は変わらないのに。
私にはやりたいことがある。受験勉強の最中に芽生えた感情が、あの過酷な戦禍においても進み続けられる私でいさせてくれた。それを叶えるためにも、絶対に志望校に合格したい。
そしてついに、私は奇跡を手にした。合格通知を受け取った時は、嬉しくてどうにかなりそうだった。あぁ、これで私は私のやりたいことが出来るんだ、って。目の前に広がる晴れ晴れとした空は、夢の中より美しく見えた。
部屋には母に宛てた手紙を置いてきた。面と向かって上手く伝えられなかった思いを、改めて文字にして伝えたくて。
――ねぇ、お母さん。
「聞きました?あそこのお嬢さん、自殺だって」
「どうしてかしらねぇ。志望校に合格したって、お母さんすごく喜んでらしたのに」
――私の人生は、私のものだよ。
〉落下 22.6.18
目を閉じて空想する。理想の未来。
来年の10月に始まる予定の馬鹿げた法案が流れて、安心して仕事に取り組める日々。相変わらず、同じ学び舎の門をくぐった同士とはオンラインのコミュニティで相談や雑談をする。パソコンに向かって文字を並べ、レイアウトしていく。そんな繰り返しだ。当たり前のような、代わり映えのない日々。でも僕はそこに満ちる幸せを知っている。
未来を希望で満たそう。
生きているのだから。
生きていくのだから。
〉未来 22.6.17
インボイス制度はほんとに要らない。
敢えて思い返そうとはしたくない。
前を見て進むうちに
振り返らなくても、過去はついてくる。
それで充分。
〉1年前 22.6.16