数十人が乗った電車の中、俺は整えられたスーツに紺色のネクタイを締め、膝の上に少し重たい鞄を乗っけて揺られていた。
しばらく経つと、もう数回は聞いた車掌の声と共に、俺を含めた数人が駅のホームに降りていく。
-時刻は午後の6時。
いつもよりかは早めに仕事を切り上げたからか、まだ夕日が沈む前だった。
自分と同じ社会人だと思われるスーツを着た人々が比較的多く視界に入る。そこに紛れるサッカーボールを持った元気そうな小学生の男の子達。
「この後どっか寄ってかね?」
「いいよ、つか待って。10円持ってない?」
多くの人の足音しか聞こえない静かな駅の階段で、一際目立つふたりの少年。
小学生だった時代なんてもう数年も前の事なのに、少年を見て俺は思わず自分と重ねてしまった。
改札口を通るまで、じっと彼らを目で追っていたが、改札口を通った途端、「せーのっ」という声と共に遠くに走り去ってしまった。
俺は電子音が鳴るスマホの電源を一度切ると、駅からしばらく歩いたところから全力で走り始めた。
少しづつ崩れていくスーツのことなんて気にせず、出来るだけ全力で、周りを見ずに一本道を走った。
到底、どこかで読んだ青春漫画のような綺麗なものではなかったが、夕日に照らされながら、なんだか晴れ晴れとした気持ちで走った。
過酷な社会、複雑な人間関係、必死に頭を下げて謝罪をする毎日。何もかも、全部忘れて。
そうなんだ。
本当は俺だって
ずっと
ずっと
「子供のままで」
「モンシロチョウ」
-あの日は確か、春だったか、夏だったか。
暖かくて明るい太陽の下、綺麗な緑色をした地面に座り込み、僕は意味もなく空を見上げていた。
僕の顔をなぞるようにすっと流れる柔らかい風を感じながら、ただただぼーっと一点を見つめる。
ふと、地面の方に目をやると、そこには僕よりも小さく、白くて美しい命があった。
何も考えずに、明るい日に照らされた綺麗な一羽の蝶に優しく触れた。
小さな命は僕の指に留まり、ほんの数秒でひらひらとどこかに舞ってしまう。
僕はそれに悲しいなんて感じずに、微笑みながら、野原を飛んでいくモンシロチョウを眺めていた。
思い返せば一瞬で、ショートストーリーにもなりきれないような幼少期のうっすらとした記憶。
でも、こんなに小さな記憶が
僕の中では、美しく儚げで、でもどこか優しい気持ちになれるような
綺麗で純粋な記憶なのかもしれない。
*明日、世界が終わるとしたら*
「明日、隕石でも落ちればな、」
同じ会社の同僚にそう口走りそうになったその日。
-この世界は毎日同じ"作業"の繰り返し。
起きて、移動して、働いて、食べて、働いて。
「人生はゲームだ、楽しめ」
なんて言葉をどこかで耳にしたことがある。
そんな言葉に対して、俺は今こう返すと思う。
このゲームには「飽きた」んだと。
ストーリーゲームは、大体いつか終わりが来る。だが、ほとんどの場合毎日違うイベントがある。
アーケードゲームは、永遠にやっていられるものが多いが、俺はあまり好きじゃない。
そんなことだけを考えて乗っていた帰りの電車の中。突然「えっ!?」と驚いたような声が聞こえ、考え事をやめて声がした方に反射的に顔を向けると、有線イヤホンを耳につけた女性が、少し青ざめた顔でスマホを落としていた。
俺は何もせず、ただ見ているだけだった。
近くに居た男性がそのスマホを拾うと、その男性もまた、小さく驚きの声を上げた。
俺はその男性の手元にあったスマホ画面に映っていたものに衝撃を隠せなかった。
「い、隕石っ、隕石です、みなさん!」
普段はしーんと静まり返った車内のはずが、今日は沢山の人が混乱や驚愕の声を上げた。
スマホ画面には、日本で全国的に見られているニュース番組が映っていた。
「地球に迫る大きな隕石 明日衝突か」
そんなふざけたようにしか見えない文字列に、俺は現実味を感じることが出来なかった。
「隕石でも落ちればな」
今日そんな事を口走った俺は、何故か黒く大きな罪悪感に苛まれる。
軽々しく口にした事が本当になってしまうなんて。
"明日、世界が終わる"
そう認識したのは、それから数十分経ってからやっとの事だった。
電車を降りると、電車から降りた沢山の人は皆駅のホームで座り込んだ。
泣きながらスマホを耳に当て、何やら話している人もいれば、真剣にニュースの内容だけを聞いている人も数人いた。
-俺は。
走って駅の改札口を通る。
最寄りのコンビニで鮭おにぎりを買って。
空を見上げると、昼なのになんだか暗いような気がする。
「…ニューゲーム、か」
嬉しかったのか、悲しかったのか、驚き過ぎて脳がショートしていたのか、それは俺にも分からない。
ただ、世界が終わる日の前日なんて、案外俺は
「まだ終わってないストーリーゲームあるんだよなー……結局主人公達付き合うのかな」
気持ち悪いくらいに冷静なのかもしれない。
楽園
それはきっと天国だ、
たしかある人はそう言った。
楽園
それはこの世界だ、
たしかあの人はそう言った。
楽園
それはこの家だ、
たしか彼女はそう言った。
楽園
そんなものは無いんだと、
そう泣き喚きながら否定したのは
他でもない僕だった。
"1つだけ"
「先生、最後に1つだけ言わせてよ」
太陽の日が照らす静まり返った放課後の教室。
ここの数階下にある校庭から小さく聞こえる運動部員達の楽しそうな活発な声が耳に入る。
「いいよ、幾らでも言いなよ。」
赤いペンでテスト用紙に丸をつけながら、岩城先生はそう言った。
「ううん、1つだけでいい。」
私は紺色の長めのスカートを揺らし、座っていた机から一度降りる。
とんっと音を立て、私が黒板の方に向かって早足で歩くと少し軋む床。先生は椅子を傾け、私に顔を向けた。
「…私の話し相手になってくれてありがとう」
窓の外では風が吹き、綺麗に花を咲かせた桜がふわっと宙に舞っていた。
私の言葉を聞いた先生は嬉しそうな、でもどこか悲しそうな表情を浮かべた後、綺麗な花束と、私の名前が刻まれた卒業証書を渡してきた。
「…こちらこそ。」
先生の瞳が小さく揺れた、ような気がした。
私は直接手で受け取ることはできない。
先生はそっと立ち、花瓶が置かれた私の机まで花束と卒業証書を持って歩いた。
「これでもう終わり、かぁ…」
私はもうとっくに普通の人間では無い。
卒業式が行われるほんの数週間前だった。
私は登校中、飛び出してきたトラックに撥ねられ、そのまま意識を失った。
気づけば私は教室の自分の席にいて。
先生だけが、私の姿を"見る"ことが出来た。
今日が終われば、私はきっと消えてしまう。
誰に言われた訳でもないのに、何故か直感的にそう感じとった。
すると先生は、スカートから下、足が薄く消えかけている私を見て、一言だけ呟いた。
「卒業、おめでとう」
たった1つだけの言葉、それだけで嬉しかった。
「ありがと…、」
拙い言葉しか出てこないが、もうそろそろ時間だろう。私が校庭の方をふと覗くと、もう部員たちは帰る準備をしていた。
「ほら、下校時間だよ」
目に涙をうかべる先生。
そんな先生を見て、私は最後に1つだけ返事をした。
「またね、先生」
「結局1つだけじゃなかったな、全然良いけど。」
誰もいない教室でただ1人、先生だけが微笑んでいた。