遠い足音
コツコツと、後ろから音が聞こえる。
気のせいだろうか。いつまでも遠い場所に居るのに、段々と近づいている気がするのは。気のせいだと思っていたかった。
たまたま自分と目的地が同じで、道順も同じであったのだと信じたかった。そして、とうにそんなことを信じられる時間は過ぎたのだと、信じたくはなかった。
コツコツと響いているそれは、多分革靴だ。兄弟のものよりも固い音のそれが、兄弟の悪戯でもないことを示していた。それが一番信じたくないことだった。怖がりの自分を脅かすだけの悪戯であれば良かったのに。
かれこれ一時間は超えたと思う。いくら普段からよく歩くとはいえ、緊張状態で歩き続けるのは堪えはじめていた。これがいつ終わるかわからないのも、それに拍車をかけていた。
家に帰ろうにも、家に誰もいなかったら、コレが家まで着いてきてしまったら……。脳が恐怖からの暗い想像で占められる。そういえば、
──コレに家がバレたら、どうなる……?
嫌な想像に気づいてしまった。少し切れていた程度の呼吸の、間隔が狭まっていく。
足音の大きさも、大きくなっていく。コツコツと遠くで聞こえていたはずの音が、段々と、段々と、だんだんと、
コツリ。
あ、これ、あと一歩で
パタン。
今までと違う音がした。自分はそれがサンダルから出る音だと知っていた。
思わず振り返ろうとしたが、結果的に身体はそのまま押し留められた。サンダルの持ち主の手によって。
「まだ、振り向いちゃダメだよ」
兄の声だった。兄さん、と言葉が出る手前で塞がれる。
「しぃ……まだ、我慢して」
ズ……と、まず靴を擦る音がした。サンダルではない、靴の音だった。そして、そのままコツコツと音が遠ざかる。
さっきまであんなに音に恐怖していたのに、兄が側に居る、それだけで安堵で塗り変わっていた。
「よし、もう大丈夫」
口から手を退かされてから、ようやく振り返る。そこにはいつもの兄がいた。目が熱い。
「兄さんのばかぁ……なんですぐ来てくれないの」
疑問は沢山あった。なんでここに居るのとか、なんで追い払えたのとか、今のはなんなのとか、なんでいつも通りなのとか。
ただ、
「帰ろっか」
そう苦笑しながら手を差し出されてしまっては、自分は手を握って、兄と小学生のときのように手を繋いで。それで、許してしまうしかなくなるのだった。
モノクロ
2025/09/30 『カーテン』の続きかもしれないものです。
白黒とモノクロは、正確には違うものらしい。モノクロは単一の色で表示されているもののことで、白黒であるとは限らないそうだ。
尊敬、だろうか。憧れかもしれない。もしくは、羨望? どれもが違うようで、どれもが己の欲に紐づいていた。長所は短所、表裏一体とはよく言ったものである。
己の欲は、先輩へと向いていた。自分にも人間の三大欲求は当然のようにそこにあったが、先輩の為ならば全て捨てられる。
その感情に名前はなかったが、無いことがトクベツに思えてしかたなかった。
きっかけは高三の春。入学式が終わった後。忘れ物を教室に撮りに行ったとき。たったそれだけだった。
一番後ろの飛び出た席に座っている先輩が目に入った。一目惚れだった。恋愛感情ではないと言い切れるのに、恋に堕ちたのだと思った。地獄も恋も、堕ちるのは一瞬だった。
先輩はいつだって美しい。先輩が居る場所は、地獄だって天国だから。それはなんだか、モノクロ写真に似ているなと思うのだ。
彩度と明度のみが残り、色相だけが失われる。一色を残して表されるそれは、自分にはとても美しいものに見えた。
時計の針が重なって
一日のなかで時計の長針と短針が重なるのは、二十二回。それはなんだか、酷く自分を興奮させた。一日は二十四時間だという世界の仕組みが一変し、秘密の二時間が存在するような、世界の秘密に気づいてしまったような、不思議な感覚だった。
子供であった自分には、針が重なる理由をきちんと理解していなかった。故に、自分が寝ている間に全ての時計が止まっていて、誰も知らない二時間が存在するのだと思っていた。それを違うと知ったのは、はて、いつだったか。
「ただ、今でも思うのはね。数えきれない回数を刻んで動くのに、二つが重なるのはたった二十二回なんだよ」
ロマンチックじゃないか? と、目の前の人は続けた。
パタリと閉じ、机に置いた本のタイトルに見覚えはなかった。ただ、英語のようで違う文字が、ひっそりと踊っている。読んでいた人を引き立て役かのように、ひっそりと。
僕はそれ──正確には相手の、整った顔の中で一番動いている口元──を見ながら、ぼけっと突っ立っていた。ただ、綺麗な人はいつどこから見ても綺麗だナァと、家に帰ってからバカじゃないかと思うようなことだけが浮かんでいた。
2025/09/25 全体的に短い方が読まれるのか?
もしも世界が終わるなら
2025/09/19 書きかけ。
2025/11/03 尻切れトンボ
明日、世界は終わる。ここにある全ては消え、あったという記録だけが残るのだ。皆が全てを知っているのに、なにも知らないような顔をして、今日も世界は動いていく。
「そこ、右です。三つ先の信号まで、しばらくまっすぐ」
「あいよー」
ゆるい返事をしながら隣で運転する先輩に、進路を指示する。後輩の自分が指示というのはなんだかヘンな気分だった。全体の社員の仲が緩いので、今更かもしれない。社長にすら敬語を使わない人もいる。
普段は自分の車で、先輩が助手席にいることが多い。だからだろうか、初めて乗った先輩の車にそわそわする。運転手が自分でなくてよかった。多分事故に繋がる。
車は、新車にも関わらず良い香りがした。新車独特の謎の匂いもしているが、薄らとあの落ち着く香りが鼻を掠める。香水の知識はないが、いつも先輩が纏わせているものと一緒だと感じた。先輩が隣にいるから、そう思うだけかもしれない。
「なぁ、明日は最後だけどさ」
突然、水をぶっかけられたような気がした。スゥ……っと指先が冷える。先輩は、まるで今日から一週間は晴れるってさ、みたいな口ぶりで、制限時間を口にした。
「明日は何すんの?」
「あー……普通に仕事しようと思ってましたよ。明日で最後なの忘れてましたわ」
たは、と口角を意識して持ち上げる。思わずタバコを探すが、これは先輩の新車だと踏みとどまる。少し考えてから、火は付けずに口に咥えた。
「お前……禁煙するって言わなかった?」
「や、昨日はしましたって」
「吸ってただろ」
俺見てたからな、と即レスされたので、すごすごと箱に戻した。先輩は偉いと言いながら、片手でで車のサイドテーブルの中から飴を出しこっちに投げる。さっきの冷えはもうなかった。
「ナイスキャッチ〜」
「こんなので褒められても……」
飴をカラコロと転がす。ぶどう。
「そこの角左です」
「ん」
「明日、なんか予定あります?」
今度は自分から切り出した。不思議と落ち着いていた。糖分のおかげだろうか。飴玉がコロ、と音を立てる。
景色が後ろへと流れていく。この先を道なりに行けば、もうすぐ海が見えるはずだ。
「おれぇ? 街を周る予定ならあるよ」
「それ仕事じゃないすか」
「俺ってば仕事が恋人なの」
カチ、と歯が鳴る。飴玉が少し欠けたのを舌で感じた。
「ね、先輩、明日の最後、俺の横に居てくれません?」
「何それ、告白?」
先輩は少し黙って、遠くを見つめた。ずっと真っ直ぐ前を見ているから、前から見ていたんだろうけど。それを横からじっと見つめる。
「……死んでも良いわ、なんてね」
「それ、は、」
指先が熱い。心臓から巡る血が沸騰して、一気に末端まで届いていた。遠くから耳鳴りがする。エンジンの振動に、ふる、と身を震わせて、ガリと飴を噛み砕いた。口を動かすのに邪魔だった。
しばらく車内は静かだった。目的地に着いて、ハンドルが止まってからも静かだった。
Red, Green, Blue
それは美しく、そして強かった。
『美しい』とは、ただ見目だけの話ではない。見目もそうだが、それの在り方であったり、行動であったりと、目に見えぬ部分だって『美しい』と評すことができる。
『強い』とは、戦闘だけの話ではない。戦闘もそうだが、それの精神であったり、弱さによる知恵であったりと、目に見えぬ部分だって『強い』と評すことができる。
私はエスパーではない。彼の心の内を正確に読み取ることはできない。
私は彼の友人ではない。彼の過去を正確に知ることはできない。
だがそれでも、彼が美しく、強いことは相対すればわかることであった。力を身につけるために努力したのだろう肉体と、ここまで正気を保つ精神。
嗚呼、嗚呼、これがどれほど素晴らしいことか!
私は研鑽を積んだと自負していた。それでも彼の前では呆気なく散る。他者が見れば、拮抗した闘いではあったのだろう。私も全力を出したのだから。それでも、天才の前には何もかもが足りない。
凡人が努力してようやく届く高みには、既に天才が辿り着いている。それでも尚努力ができてしまうのが天才というもので、同じ努力をしても敵わない。
肉体、精神、そして魂。これらは引き合い、身体を成す。どれが強すぎてもいけない。一方が強ければ、弱い方が潰れてしまう。三竦み。
肉体と精神があれだけ強く、美しいのだから。魂もそれだけ強く、美しいのだと思った。きっとそれが、分岐だった。
視界が霞む。血に塗れようと、満身創痍であろうと、彼は美しい。人に対してそう思うのは初めてだった。そして、もう最後なのだろう。ぎりぎりまで目を開き、焼き付ける。
黄泉にどれだけを持っていけるのかはわからないが、六文銭を捨ててでも、焼き付けた目は持とうと決めた。
何も無い黄泉への楽しみが一つできた。
視界が暗い。嗚呼、彼の白い魂が、きらき ら、と。
確かに強かった肉体が、目を閉じた。